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□とある夫婦の朝
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───これでもう、お前は一生俺のものだよ…?
目を瞑って思考をめぐらせれば、すぐに脳裏に浮かぶ彼の表情、そして耳元で囁かれているような声。
それは現在専業主婦として家庭を支える越前悠香の夫、越前リョーマの声であった。
その台詞は、入籍直後に実際言われた言葉だ。
悠香はそんなリョーマの言葉に苦笑を漏らし、「私が逃げるわけないじゃない」と返事を返していた。
それは、悠香の本音である。
リョーマは満足気な笑みを浮かべ、愛おしそうに悠香の頭を撫でてきた。
「リョーマ、リョーマ。…朝だよ、起きて?」
リョーマよりも約1時間早くに起きていた悠香。
朝食を作り終えればちょうどリョーマの起床時間であり、悠香は笑みを浮かべながら寝室へ身体を滑り込ませた。
クイーンサイズベッドでは、白いシーツと白い掛け布団に包まれてスヤスヤと寝息を立てる夫の姿がある。
そんなリョーマの体を軽く揺さぶり、リョーマを起こしにかかった。
「……ん、ぅ」
小さく唸り声を上げ、瞼を少しだけ持ち上げたリョーマ。
悠香はすかさずリョーマの目の前に顔を持っていき、息のかかるほど近い距離で「リョーマ?」と名前を呼んだ。
「…起きる、から」
吐息交じりに吐き出された言葉。
リョーマは気だるげに体を起こし、ふわっと大きなあくびを漏らした。
「おはよう、リョーマ」
「……おはよ」
眠たげに瞼をこすりながら、リョーマが悠香の挨拶に返事を返す。
あくびをすることによって脳に酸素が届いたのだろう、リョーマはすっと目を開くと悠香に向かって手を伸ばした。
まっすぐ伸ばされた手が掴むのは、悠香の首を飾る赤いチョーカー…否、首輪であった。
人差し指を首と首輪の隙間にひっかけると、容赦なくぐいっと引き寄せる。
途端に悠香は少し苦しげに眉を寄せ、リョーマの目の前に悠香の顔がある状況であった。
「おはようのキスは?」
優しげな声、そして優しげな表情。
けれど悠香は知っている。
それは"おねだり"ではなく、早くしろという"命令"であることを。
「おはよう、リョーマ」
先ほどと全く同じトーンで、全く同じ台詞を吐き出し、悠香は自分の唇をリョーマの唇に押し当てた。
そこでようやく満足したのか、目を細めたリョーマは簡単に悠香が離れないようにと悠香の頭に腕をまわした。
朝から交わされる熱い接吻。
1分から2分続いていた接吻に、悠香は頬を染めながら唇を離した。
「全く、お前はいつも堪え性がないね」
ふぅ、と溜息を吐きながらリョーマが言う。
悠香は赤かった顔を青白くさせ、震えるような声で「ごめんなさい…」と謝罪の言葉を口にした。
「……ま、いいけどね」
たいして気にしていないようなリョーマの言葉に、悠香は小さく安堵の息を漏らした。
リョーマと悠香は確かに相思相愛でゴールインした。
けれどひとつだけ難点がある。
それは、リョーマの悠香への愛が他人のソレよりも重たいということだ。
機嫌を損ねれば、リョーマは手を出さない代わりに言葉で攻め立てられる。
愛する人に罵られることは、悠香にとって耐えられないものだと知っているからだ。
もちろんリョーマは悠香を重すぎるほどに愛しているため、そのすぐあとに後悔の念に駆られて何度も何度も謝るのだが。
「今日って何?」
「あ、今日は昨日リョーマが食べたいって言ってたサバの味噌煮とご飯とお味噌汁なんだけど…」
「へぇ」
首輪から手を離したリョーマに問われ、悠香は朝食のメニューを答える。
ちなみにこの首輪もリョーマの重たい愛の延長である独占欲の表れだ。
基本的にリョーマが嫌がるため家を出ない悠香は、この首輪をはずすことはめったにないのだが。
さすがにリョーマも自分の言動を異常だと自覚しているのか、その独占欲が家以外で表面に出てくることはない。
床に足をつけ、リョーマはベッドから下りた。
11月に入り、朝は冷え込むことが多い。
温かい布団から出た瞬間に襲ってくる冷えに、リョーマはぶるりと背筋を震わせた。
「リョーマ、上着…」
悠香がどこか申し訳なさそうに上着を広げてリョーマに渡してきた。
その表情は、きっと手渡すのが遅くなったからという理由からなるものだろう。
「ありがと」
リョーマはふっと笑みを浮かべると、悠香から上着を受け取って羽織った。
分厚めの生地であるためか、羽織った途端にリョーマの体を温もりが包み込んだ。
ピンポーン
突然訪問者を知らせるインターフォンのチャイムが鳴り響き、悠香とリョーマは驚いたように顔を見合わせた。
今は朝の6時30分過ぎ。
普通、この時間に誰かが訪問してくることはない。
訝しむように眉を寄せたリョーマは、悠香から視線を外すと残り数段になっていた階段を駆け降りた。
その後ろを、慌てて悠香が追いかける。
「悠香はリビングにいていいよ」
「え、でも…」
「いいから。俺はお前の姿を誰にも見せたくないの」
リョーマに言われ、悠香は渋々と言った様子で朝食の用意がされているリビングに向かった。
残されたリョーマは溜息を吐き、悠香に向けていた優しさを表情から消し去る。
そして面倒くさそうに玄関のドアを開けた。
といってもチェーンはつけられたままなので、実際は十数センチしか開かない。
「…どちら様ですか」
「あっ、越前さーん?あたし、隣のものですけど」
その十数センチの隙間から、ひょっこりと顔をのぞかせたのは早朝にも関わらず化粧がふんだんに塗りたくられた隣の住人であった。
確かつい先日に離婚し、シングルマザーとなっていたと僅かに記憶にとどめていた。
「…なんか用っスか」
「実は、ホットケーキいっぱい焼きすぎちゃって!もしよかったらどうかなぁーって」
そういう隣人の女の手には、確かにまだ温かそうなホットケーキが皿に盛られた状態で持たれていた。
明らかに間違えて多めに焼いてしまったという量ではなく、狙って作ったかのような量の多さである。
「いや、いいっス」
「もー、遠慮しないでっ!独りでご飯とか寂しいでしょ?あたしも寂しいし、一緒に食べましょうよ!」
眉を寄せてドアを閉めようとするリョーマを必死に止めるかのように声をかけていく。
そこで、リョーマがピクリと反応を示した。
それをチャンスと勘違いしたのか、隣人は「ねっ、妙案でしょ!」とまくし立てる。
「……俺、」
キラキラと目を輝かせながらリョーマを見つめる隣人。
リョーマは完全に冷めきった目をしながら、冷ややかに淡々とした口調で告げた。
「結婚してるんで。わけわかんない憶測立ててこんな時間に来るの止めてくれません?……俺と嫁の時間、邪魔するとかふざけんなよ」
「え」
ぴしりと固まった隣人に舌打ちを漏らし、リョーマはばたんっと扉を閉めた。
確かにこの家をまともに出入りしているのはリョーマだけだろう。
なぜなら妻である悠香はリョーマによって外出禁止令がだされているから。
その結果としてご近所さんにはそこそこ広い家に一人で住んでいる独身男と判断されていたらしい。
「リョーマ…どなただったの?」
リビングに戻れば、器に料理を盛りながら悠香が訪ねた。
リョーマはリビングの椅子に腰を下ろし、テーブルに置かれている新聞を手に取りながら答えた。
「知らない」
間違いではない。
隣人であることを把握しているが、その隣人のことは何も知らないのだから。
リョーマの言葉に、悠香は「そう…」とどこか困ったように頬に手を添え、何事もなかったかのように朝食の用意を始めた。
とある夫婦の朝
(いただきます)
(いただきます)
(…ん、美味い)
(ホント?よかったー)
(実は昨日から下処理とかしてたんだ)
(へぇ、やるじゃん)