□幸せの定義は
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コチ、コチ、と時計の針の音だけが響く。
部屋には男と女が、特に何をするわけでもなく寄り添うように座っていた。
この男女は、つい先日籍を入れたばかりの新婚だ。
大学を卒業して間もないため、いまだに学生時代の交際期間と変わり映えがしないらしい。
夫婦になり、姓名は越前リョーマと越前悠香に変わった。
結婚式は来週挙げられることになっており、今はもうその準備も終わってのんびりとくつろいでいるところだ。

コテン、とリョーマの肩に悠香が頭を乗せた。
急にかかった体重に気付いたのだろう、リョーマは優しげな笑みを浮かべて視線を悠香に向ける。

「どうかした?」

「んー、平和だなぁって思ってー」

のんびりとした口調は、どこか眠たげでもある。
窓からは暖かい日光が差し込んでおり、うつらうつらと悠香の眠気を誘っている。
しかし完全に眠る気はないのか、時折あくびを漏らしては瞼をこすっていた。

「あー…たしかにそうだね。もうやることだいたい終わったし」

結婚式はあと1週間。
式場も、ドレスも、指輪も。
その他にも、式に必要なものはすべて用意し終えた。
後は1週間後を待つだけだ。

二人の左手薬指には婚約指輪がはめられており、もうすぐそこには新たに結婚指輪もはめられる。
リョーマは帰国子女であるためか、二人は婚約指輪のその上から重ねて結婚指輪をはめる予定になっていた。
アメリカなどの海外では、婚約指輪と結婚指輪を一緒にはめる夫婦が多いのだ。
もちろん、リョーマは趣味でもテニスをするためその時は仕方なくはずすのだが。

「明日はデートでも行く?」

悠香の頭を撫でながら、リョーマが問うた。
気持ち良さそうに目を瞑る悠香は、さながら猫のようだ。

「んー、それもいいねぇ」

リョーマと悠香は長い期間交際している。
けれどその間にどちらかの想いが揺らぐということもなく、浮気などもなく、特に大きな喧嘩もなく、ここまで来た。
互いのことはよく理解しているつもりだし、理解されているとも思う。
けれど付き合い始めた当初のような初々しさもどこか残っていて、定期的にデートも重ねているのだ。

「じゃあ、明日はちょっと遠出してみようか」

「あー、私温泉行きたいな。入浴剤だけじゃ物足りなくなっちゃった」

リョーマは昔から名湯の入浴剤を集めており、よく湯船につかって疲れを癒していた。
それは悠香との交際が始まってからも、同棲を始めてもやめることはなく、今では悠香も入浴剤を集めるのが好きになるほどだ。
全国各地に多く点在する名湯。
明日一日の日帰りともなればいける場所は限られるが、それでも悠香は温泉に行きたいらしい。

「ん、じゃあそうしようか。確か日帰りで前日予約受付してるとこあったよね」

リョーマはクスリと笑みを零してそういった。
宿泊するとなればもう少し早めの予約が必要であるが、日帰りであれば前日予約でもいいという温泉宿は多く存在する。
やった、と嬉しそうに言葉を漏らした悠香はリョーマの肩に乗せていた頭をのけ、満面の笑みをリョーマに向けた。

「調べてみるからちょっと待って。空きがなかったら大人しく諦めるんだよ?」

「わかってるよー。私、そこまでワガママじゃないもん!」

「知ってる」

温泉には行きたいが、予約の空きがなければ駄々をこねるというような年齢でもない。
頬を膨らませながら少し不満げな声を出す悠香に、やはりリョーマは優しげな笑みを浮かべてそう返した。

リョーマは、悠香と共に時間を過ごしているときだけは優しげな表情を浮かべていることが多い。
たとえ悠香がその場にいなくても、会話に出てきたり惚気る際にはいつも柔らかな表情を浮かべているのだ。
それは学生時代からの、リョーマの一種の癖である。
中学時代──本当はもっと幼い頃からだろうが──のリョーマは、基本的にクールで口数も少なく素気ないといった態度を取りがちだった。
それは中学時代に部活でテニスをしているとき以外に穏やかな気持ちにならなかったからだ。
特に好意を寄せている異性もおらず、リョーマの初恋の相手は当然のように悠香である。
恋をしたのも、交際関係にまで至ったのも、手を繋ぐのも、キスをするのも、肌を重ねるのも。
リョーマの初めての相手はすべてが悠香である。
悠香もまた、すべての初めての相手はリョーマである。
探り探りの恋ではあったが、周りにのまれず自分たちのペースで進めるというのは利点だろう。

「リョーマ、大好きーっ」

パソコンの検索サイトで日帰り温泉について調べていたリョーマ。
そんなリョーマの背中に抱きつき、悠香は好きだと発言した。

「急に何?」

どこか呆れを孕んだ、しかし同時に嬉しそうでもあるリョーマの声。
愛している相手から好きだと発言されて嬉しくないはずがないのだ。

「んー、何となく思ったの」

「ふーん?…ま、俺も好きだけどね」

よその夫婦や恋人というのは、長く付き合っていればいるほど自分の気持ちを伝える機会というのは少なくなるのではないだろうか。
しかしお互い全てが初めて同士である二人は、自分の気持ちを相手に伝えないと不安にも感じるのだ。
だから、二人は事あるごとに甘ったるい愛の言葉を相手に向かって吐き続ける。

「私、リョーマのお嫁さんになれて幸せだー」

「俺も、お前と結婚出来て幸せだよ。ま、これからもっと幸せにしてあげるから…せいぜいがんばってよね」

「うん、がんばるー」

笑いながら軽口をたたき合う二人は、実に幸せそうであった。
じゃれあうようにお互いを抱きしめてキスを落とし、そのまま床に崩れ込むように寝転がる。

越前リョーマと越前悠香のじゃれ合いは、カーテン越しに太陽が見詰めているだけだった。



幸せの定義は



(やー、リョーマくすぐったい)

(首にキスしただけじゃん)
(ねぇ、マークつけていい?)

(明日温泉だからダメー)

(…ケチ)

(だから、明日帰ってきてからね!)

(…今すぐつけたいんだけど)
(ま、しょうがないか…)
 

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