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□きっと次は、
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ガタン、ガタン、と音を立てながら、汽車は走る。
時折汽笛の音も奏でられ、汽車は悠悠と目的地に向かっていた。
賑やかな車内。
子どもたちは楽しそうに窓の外を見つめ、次々と後ろに流れていく景色に目を輝かせていた。
そんな車内で、ある場所だけ、少し違った雰囲気を醸し出していた。
その座席に座っているのは、まだ幾年もいかないであろう若い男女。
汽車に乗るにはそれなりに高額な金子を支払う必要があったため、珍しいといえば珍しいだろう。
男の方は向かいに座る女を見つめながら、満足そうな笑みを浮かべていた。
「…面白い?」
「はい。汽車に乗るのは初めてですから…。素敵な思いでになります」
「そう、ならよかった。本当は上等の席を取ってもよかったんだけどね」
男の問いに、女が微笑みながら答える。
どうやらこの席を用意したのは男の方らしく、まだ若いのに上等を手配できる旨を匂わせるあたりそれなりの金持ちらしい。
「いいえ、十分です。…わたくしでは、一生かかってもこのようなものに乗ることはできませんでしたし」
女は首を横に振り、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
なるほど、確かに男の着ているものと女の着ているものでは質がいくらか違うらしい。
女の寂しさを思わせる表情に、男の方も困ったように眉を寄せた。
「…ねぇ、梓紗」
「はい、なんでしょう。リョーマさん」
「今ならまだ戻れるよ。……最後だけど、本当にいいの?」
男──リョーマは、女の名前を呼んで問うた。
これだけでは何を言っているのかわからないが、梓紗には伝わったらしい。
ふふっと微笑んで、「もちろんですよ」と答えた。
「わたくしは…貴方様のお傍に、いたいのです」
「…そう。梓紗がいいのなら、俺はもう何も言わないよ」
どうやら二人の間では、何か決意しているものがあるようだ。
リョーマと梓紗は互いを見つめて微笑み合い、愛おしそうに目を細めた。
「ところで、梓紗。アレはもってきたの?」
「もちろんです。せっかくリョーマさんからいただいた物ですもの。ここにありますよ」
梓紗は頷いて返事をすると、座席に置いていた小さな箱に手を置いた。
小さくはあるが桐で出来ている箱、それなりに高級品のようだ。
「…まあ、置いてきても問題はないんだけどね」
「気持ちの問題です」
クスクスと笑みを零しながら答える梓紗。
リョーマは「そーゆーもん?」と不思議そうに首を傾げた。
「…嗚呼、そろそろだね」
「もうそんなに経ちますか?まだ数分しか経っていない気分だわ」
窓の外に目を見やって呟くリョーマに、梓紗は意外そうに目を瞬かせた。
時間も忘れていたのだろう、確かに外は梓紗が見たこともない美しい景色が広がっていた。
「…この季節ですから、やはり降りる人はいませんね」
「まあ、そうだろうね。さっき車掌に不審がられたよ」
荷物──といってもほとんど何もないが──を持って駅に降りた梓紗とリョーマ。
この寒い季節に、この駅に降りる者はやはり二人の他にはないらしい。
「どうしたんですか?」
「彼女がどうしても海を見たいというから、って誤魔化しといた。大変ですね、だって」
「ま。わたくしをワガママ娘にしたんですの?ひどい人」
むっとしたように唇をとがらせる梓紗に、リョーマはごめん、と素直に謝る。
そして宥めるように、彼女の絹糸のように美しい髪へ指を滑らせた。
「でも…変に疑われて、邪魔されるよりよっぽどマシだろ」
「それは…そうですけど」
「だいたい、変な汚名着せられたって、もう関係ないじゃん」
リョーマの言葉に、梓紗は納得したようなしないような、複雑そうな表情を浮かべる。
確かに彼の言うことはもっともなのだが…やはり完全には納得できないのだろう。
「ほら、おいで」
それでもリョーマが微笑みながら手を差し出せば、それだけで彼女はすべてを赦したように笑った。
彼の手を取り、距離を縮める。
そうして寄り添うように近寄って、浜辺へと降りていった。
風に揺れ、海が白く波立っている。
きれいな砂浜に足跡を残しながら、二人はじっと地平線の彼方を見つめていた。
「…旦那様にも、奥様にも、申し訳ないとは思っています。行き倒れていたわたくしを助けてくださった恩人ですもの。でも…」
「…そもそもは俺が言い出したんだ。梓紗が気に病むことはないよ」
「……この子にも、申し訳ないわ。せっかく授かった命なのに…わたくしのワガママのせいで、この世に生を受けられないなんて」
眉を寄せながら、梓紗は自身の腹を撫でる。
どうやら──そこには、まだこの世に生まれていない命があるらしい。
あからさまに腹が膨らんでいないあたり、まだ2,3ヶ月しか経っていないのだろう。
リョーマは困ったように眉を寄せたまま、そっと梓紗の身体を抱き寄せた。
何かを思案しているかのように目を瞑り、そして開く。
「…確かにこの世に生を受けられないかもしれない。けど、このまま生まれたからってこの子にとって幸せがあるとは思えない。だから、俺らが連れていくのが一番いいんだよ」
どうやら、慰めの言葉を考えていたらしい。
梓紗はリョーマに身体を預けながら、その言葉を聞いた。
「これは全部、俺のワガママだから。梓紗もこの子も、俺に巻き込まれただけ。…ごめん。でも、きっと……きっと来世では、お前もこの子も、幸せにしてみせるよ」
「…それが聞ければ十分です。信じていますから」
「…ありがと。じゃあ、いこうか?あまり時間を食うと、追手が来るかもしれないから」
「はい」
梓紗はコクリと頷き、リョーマから少し距離を取った。
二人は手を取りながら、歩きだす。
その先には──白波を立てる、海があった。
「…っ」
爪先に凍てつくような海水が触れる。
想像していたよりもはるかに冷たく磯臭い海に、梓紗はほんの少し不快そうに眉を寄せた。
それでも、この凍てつくような冷たさに耐えれば、きっと幸せがまっている。
そう信じて、歩く。
一方のリョーマも、声には出さないが不快そうに眉を寄せていた。
一歩一歩進むごとに、確実に、着実に、死へと近づいている。
自分が死ぬのは怖くない。
すぐ隣には、梓紗がいるから。
けれど、梓紗と、梓紗の腹にいる自分の血を分けた子どもが死ぬのは怖かった。
ただ、自分がいなければきっと二人は無事では済まされない。
だから、一緒に逝くのが一番いいのだ。
「ねぇ、梓紗」
「なんですか、リョーマさん」
寒さからだろう、声を震わせながらリョーマは口を開く。
「…愛しているよ。この世の何よりも」
「…わたくしもです」
はぁ、と口から漏れた吐息は白い。
唇は紫色に変わっており、彼女はお世辞にもきれいだとはいえない。
けれどリョーマはその時、確かに彼女に対する愛おしさと美しさを感じたのだ。
きっと次は、
幸せになれると信じてる。
「……わたしたちは、間違っていたの?」
海からあがった、代わり果てた息子とその恋人の姿。
それを見ながら、彼女は嘆いた。
彼女──リョーマの母の問いに、夫は答えられずにいた。
資産家の息子なのだから、その妻にはそれ相応の立場の女子を。
そう考えていたリョーマの両親は、常々反対していたのだ。
リョーマが、自分の家の使用人である梓紗に対して恋心を抱いていたことを。
梓紗も当然のようにリョーマに好意を抱き、二人はやがて愛し合うようになった。
それを認めなかったのは、自分たち。
「………ねぇ、あなた」
「…なんだ」
「リョーマは、幸せかしら?」
「…幸せだろうよ。ほれ、見てみろ。……こんな冷たい海に潜ったってのに、幸せそうな顔してやがる」
血の気も引いて、すでに絶命している愛する息子。
それでも彼は、彼の愛した女性の手をしっかりと取って、幸せそうに笑みを浮かべていた。
「…それに、梓紗ちゃんも幸せだろうよ」
「え?」
「髪、見てみろ」
あまり目に入れたい光景ではないが、促されるまま彼女の髪を見やる。
あの絹のように美しかった髪は乱れ、ぐしゃぐしゃになっていた。
そんな絡まった髪の中に、ソレはあった。
「あれ…」
「リョーマが買い与えたんだろうよ。…全く、縁起でもねぇ」
都でも有名な職人が作り上げたという、木櫛だった。
櫛というのは、その名前から苦と死を連想させるため贈り物には向かない。
それでもあえて彼が彼女に贈ったということは──その時から、このことを考えていたのだろう。
愛するものと一緒に慣れないのなら、いっそ…と。
二人がいなくなったことにもう少し早く気づいていれば、二人が命を落とす前に助けられたかもしれない。
けれどもし助けられたとしても、果たして二人が幸せになれたかどうかは定かではない。
やるせない気持ちに満たされた夫妻は、何かを耐えるように海を睨みつけ、そっと目を伏せた。