□キスするために
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くちゅんっ、と隣から変な音が聞こえた。
水道で顔を洗っていた彼は怪訝そうな表情で顔を上げ、その音をたてた人物を見やった。
くちゅんっ、ともう一度同じ音がする。
どうやら、その変な音は可愛らしい彼女のくしゃみだったようだ。

「風邪?」

ずび、と鼻をすする彼女──梓紗──に彼は問う。
彼、もといリョーマの問いに、梓紗はふるふると首を横に振るだけだった。

「違うよー。…花粉症なの」

言いながら、またくしゃみをする。
春先になりはじめ、どうやら少しずつ花粉が飛び始めているらしい。
そういえば、梓紗は花粉症がひどいんだっけ?
もう何度目かのくしゃみのあと、鼻をすすって目をこする梓紗を見ながらぼんやりと思いだす。
そういえば初めて会ったあの入学式の日も、随分とくしゃみをしていたっけ。

「言ってたね、そんなの。大丈夫?」

「んー…毎年のことだし」

もごもごと言葉がくぐもっているのはマスクをしているからだろうか。
この時期になると、彼女はほんの少しでも花粉を防ぎたいからと顔の半分以上を覆うマスクを着用するようになる。
まともに見ることができるのは目だけなのだが、その目はいつも以上に潤んでいるように見えた。

「でも、今日は花粉多いのかも…」

いつもより鼻がむずむずする…。
といいながら、マスクの上から鼻を押さえる梓紗。

花粉症ではないリョーマにはまったくわからないが、今日はこの時期にしては花粉が多いらしい。
最近は暖かい日も続いていたし、それも原因なのだろうか。

「………」

くちゅ、くちゅ、と続けて可愛らしいくしゃみをする梓紗。
まあ、たとえここで男らしいくしゃみをされたところで減滅をするわけではないが。
やはり男らしいくしゃみよりは可愛らしいくしゃみのほうがいいような気もする。

「それよりリョーマ、まだいいの?もうすぐ休憩時間終わりでしょ」

今は、放課後の部活動の途中。
休憩時間になったため、リョーマはテニスコート近くの水道で汗を流しに来たのだ。
梓紗がそこにいたのが偶然なのか狙ったのかはわからないけれど、ほんの少しの時間でも彼女と一緒に過ごせることが嬉しいのだ。
…だから、正直に言えばたとえ休憩時間を過ぎてもここにいたいというのが本音だ。
そんなことをすれば罰走は免れないし、梓紗にも結果的に格好悪い姿を見せることになるから、きちんと練習には戻るけれど。

「まだ時間あるし」

ちら、とコートに目を向けても、まだ賑やかな声が聞こえる。
笑い声も聞こえているあたり、練習が再開したというわけではないだろう。
そもそもハードな部活中に笑い声が聞こえるはずがないのだから。

「ならいいけど…」

梓紗も、リョーマが罰走をさせられないか心配しているのだろう。
よく朝練に遅刻するリョーマがグラウンドを走らされているのを知っているから。

「だいたい、梓紗の前でそんなカッコ悪いこと出来るわけないじゃん」

「よく言うよ、私が応援に行った大会で遅刻したくせに」

「…それはそれ、これはこれ」

意味が分からない。
じと、と横目でみやる梓紗に、リョーマは苦笑を漏らした。
彼の遅刻癖は今に始まったことではないけれど、公式戦で遅刻したのはしっかり梓紗の記憶に残っているらしい。

「…まあ、試合はカッコ良かったけど」

ほんのりと頬を染め、ぽつりと呟いた梓紗。
思わずリョーマは梓紗の顔をまじまじと見つめてしまった。
彼女がそんなことを口にするのが珍しかったからだ。

「…珍しいじゃん。そんなこと言うなんて」

「なに、私が素直じゃないとでもいいたいの?」

…正直、あまり彼女が素直だとは思わないが。
だって彼女は恥ずかしがり屋の気があるから。
リョーマへの好きという気持ちも、なかなか伝えられないことが多かった。
それでも問題なくここまで来られたのは、単にリョーマがいち早く梓紗の感情を察知していたからだろう。
梓紗はリョーマには嘘がつけないらしい。

「まあ、梓紗って素直じゃないときもあるよね。天邪鬼っていうの?」

「そんなことないと思うけど…」

やはりというか、梓紗本人は無自覚らしい。
まさか自分が素直な人間だとでも思っているのだろうか。
だとしたらとんだ勘違いだ。

「そんなことあるでしょ。俺が言うんだから間違いない」

「なにそれー、ひどい!」

むぅ、と不満気に眉を寄せる梓紗。
おそらくマスクの下では、唇をとがらせているのだろう。
そういう子どもっぽいところも、可愛いとは思うけれど。
惚れた弱みなのだろうか、リョーマにとってはどんな梓紗でも可愛いと、愛おしいと思ってしまうのだ。

「…」

マスクで隠された梓紗の顔を見て、くちゅんっ、と何度もくしゃみをする梓紗を見て、リョーマはあることを思いつく。
名案だとほくそ笑むリョーマだが、くしゃみに忙しい梓紗は気づいていないようだ。

「梓紗、マスクになんかついてる」

「え?」

「取ってあげるから、こっち向いて」

何かついている、とは何だろう。
リョーマの言葉を疑うことなく、彼に顔を向ける梓紗。
そのまま手を伸ばし耳元に触れるが、マスクを外そうとしているのだろうとされるがままになる彼女。
そして、ゆっくり顔を覆っていたマスクが外される。
と同時に外気にさらされ、花粉の直撃をくらい、梓紗はひときわ大きなくしゃみを漏らした。

早くマスク返して…、と言いたげに目を開いた梓紗。
しかし、何かを言う前に口をふさがれてしまった。
…彼の唇によって。

「!?」

目を見開いて驚く梓紗。
リョーマは唇を離すと、満足そうに笑みを浮かべてぺろりと舌なめずりをした。

「な、んで…っ」

「はい」

ぱくぱくと口を開閉させる梓紗に、リョーマはマスクを付け直してやる。
そして愛用の帽子のツバを親指と人差し指でつまみながら、ふふんと不敵な笑みを浮かべた。

「じゃ、そろそろ戻るから」

「リョーマっ!説明してよっ」

何が何だかわからないうちにされたキス。
梓紗はマスクに隠された顔を真っ赤にしながら怒鳴るように問うた。

「……説明って、ただキスしたかっただけ」

「はぁ!?」

「マスクになんかついてるって、ただのウソだから」

そんな告白にますます意味が分からないと言いたげな梓紗。
リョーマはそれから特に何を言うでもなく、梓紗に背を向けてさっさと部活に向かってしまった。

結局、梓紗がリョーマの「マスクになんかついてる」という言葉がただの口実だったことに気付いたのは、それから1分後のことだった。



キスするために



(なにアレ、なにアレ!)
(意味わかんないんだけどっ)
(…結局、キスしたかっただけなの?)
(リョーマのばかぁっ!)
 

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