短編集
□日常の変化
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風呂からあがったらしい彼女は、少し恥ずかしそうに俺のシャツに身を包んでいた。
着ていた服は洗濯しており、先程彼女は俺の作ったスープをじつに美味そうに平らげた。
人に料理を振る舞うのは初めてだったが、不味くはないようだ。
「───で、アンタ名前は?」
俺の問いに、彼女は困ったように眉を寄せた。
そして、喉を指差し、顔の前で両手の人差し指を使いバッテンを作る。
そのジェスチャーはつまり、
「…声、でないの?」
喋ることが出来ないということだろうか。
俺の言葉に、彼女はコクコクと頷いた。
声の出ない(障害者といっていいのかわからない)人間に会ったのはこれが初めてで、俺の思考は一瞬フリーズする。
しかしすぐに思考回路は復活し、電話の横に置いていたメモ用紙とペンを彼女に渡した。
「名前、書いて。面倒かもしれないけど」
彼女はメモ用紙とペンを受け取ると、サラサラと文字を書き始めた。
『葉桜澪、14歳です。ご迷惑をおかけしてすみませんでした』
女の子らしく少し丸みを帯びた、それでも読みやすい文字。
彼女は筆談に慣れているのかもしれない。
漢字で書かれた姓名には、ご丁寧にも読み仮名までふられていた。
俺の予想通り、彼女は俺より年下だったらしい。
「澪…ね。アンタ、これからどうすんの?」
『いくあてがないんです。私、どうすればいいでしょうか?』
そんなものを俺に聞かれても困る。
いく宛がないのなら、これから先の衣食住は保証されないということだろう。
ますます家から追い出すことなど出来ない。
「…じゃ、暫く俺ん家にいなよ。他に方法もないだろうし」
『でも、ご迷惑じゃないですか?ここまでしていただいたのに、私は恩返しができません』
恩返し、なんて義理堅い少女だ。
「…じゃ、交換条件ってのはどう?それならいいでしょ」
『等価交換というやつですね』
普通に交換条件なんだけど。
澪は頭が良いのか悪いのか、よくわからない。
「好き勝手に使っていいから、家の家事とかしてくんない?正直面倒なんだよね、掃除とか洗濯とかって」
部活で疲れ切った身体に鞭打って飯作ってんのに、それに掃除と洗濯とかふざけんなって感じだよね。
1人暮らし始めて、母さんの凄さがよくわかった気がする。
澪はキョトンと目を瞬かせてメモ用紙を見せて来た。
『たったそれだけで良いんですか?』
「他にしてもらおうと思わないし。それで良いんなら決定ね」
『ありがとうございます!』
メモ用紙からは嬉しさがありありと伝わって来るが、その表情は僅かに強張っている。
世話になったとはいえ、トントン拍子に進む話に戸惑っているのだろう。
まぁ、いくら年頃の男女だからといって間違いが起こることはないと思うが。
『聞かないんですか?なんで家出したのかって』
そっと視界に差し出されたメモ用紙にはそんな事が書いてあった。
聞いて欲しいなら聞くけど、と答えればそういうわけでは、と返って来た。
つまりどっちだ、面倒くさい。
「…ま、話したくなったらでいいよ。何か事情あるんだろうけど、土足で踏み荒らす気はないから」
プライバシーってものがあるし、俺はそこまでお節介でもお人好しでもない。
澪はありがとうございます、と先程と同じような文字を見せた。
こうして、口の聞けない少女との生活が始まった。
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