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□Do not trust.
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熱でぶっ倒れてリョーマに介抱してもらってから、1週間。
私は、まだテニス部のマネージャーを辞められずにいた。
いや、正確には仕事は一切していないし部活にも参加していない。
けれど退部届を部長が受け取ってくれないがために、マネージャーとして在籍しているという形になっているのだ。
つまり──いまだにお姉さま方からの呼び出しはなくならないし、むしろ今までよりも面倒なことになっている。
彼女たちの言い分は、実に矛盾しているのである。
マネージャーを辞めろ!という割には私が部活に参加していないと「なめてんの!?ドリンクくらい作りなさいよ!」だとか「タオルくらい洗濯したら!?」と怒鳴られる。
仕事辞めさせたいんじゃないんかーい。
もうそんなに言うなら自分たちでやりなさいよ。
人数多いんだから仕事すぐ回るってば。
いくら可愛くてもそろそろムカつくぞ。
リョーマにはもっと早くキレるべきでしょとか呆れられたけど。
女の子相手には沸点高い方なんだよね、私。
逆に男相手には沸点低いけど。あ、もちろんリョーマは別だよ?
まあ、何が言いたいのかというと。
そろそろこの学校自体に嫌気がさしてきた、ということだ。
お姉さま方にもいい加減ムカついてきたから呼び出しには最近応じてないし、部活来いよーと気安く話しかけてくる先輩たちにもムカついてる。
そのせいでますます酷くなる周囲の女の子たちからの視線にもほとほと呆れているところだ。
ああ、もう、サイアク。
……リョーマに会いたいなぁ。
「…やあ、神野さん」
気分が下降しているのに、声をかけられてますますテンションはだだ下がりだ。
それこそ、ジェットコースターで勢いよく下っていくように。
「……」
言葉を発さないまま、その人を一瞥する。
かるくウェーブのかかった、藍色の髪がふわりと風に揺れる。
いままでに見たことがないほど穏やかな笑み。
きゃぁ!と聞こえた、周りの女の子たちの可愛らしい…いや少々やかましい声。
そんな声の主たちに一目もくれず、彼は一歩近づいてくる。
それに合わせて足を後ろに動かせば、彼はぴくりと反応を示す。
「久しぶりだね。今日は部活来てくれるのかい?」
「………」
答える気はない。
無言でいれば、彼は──部長は浮かべた笑みもそのままに「神野さん?」と重ねて問うてきた。
…うぜぇ。
だから言ってんでしょうが私はリョーマ以外の男に対する沸点低いんだよくそが。
思わずちっと舌打ちを漏らせば、部長は頬を引きつらせている。
「あ、時間やばっ」
ちょうど休み時間も残り数分しか残っておらず、ここから教室までは少し距離がある。
部長の質問に答えることもなく踵を返した。
「あっ」
後ろからそんな声が聞こえたけど、無視だ無視。
今日はリョーマのとこ遊びに行こうかなぁ。
そんなことを勝手に思いながら、小走りで教室に向かった。
******************
午後の授業もすべて終え、明日もある授業の教科書だけを机に残して他は後ろのロッカーに突っ込む。
筆箱や下敷き、プリントの入ったファイルなど必要最低限しか入っていない軽いスクバを肩にかける。
よし、このまま電車に乗ればリョーマの部活が終わる前にリョーマの家まで行けるはず。
スクバの中の携帯電話の電源を入れ、こっそりと倫子さんにメールする。
もちろんリョーマには内緒で。
「あっ梓紗ちゃん!」
「…香奈ちゃん」
教室の前で待っていたのは、香奈ちゃんと愉快な仲間たち…もといテニス部レギュラーたち。
えへへと可愛らしい笑みを浮かべた香奈ちゃんは、迎えに来ちゃった!と胸キュン台詞を投げかけてきた。
くそ香奈ちゃんが殺しにかかってきてる…ってそうじゃない!
「ね、もうすぐ時間だし行こ?」
ちょっと前までならこの顔に騙されたんだけどなぁ。
悪いけど今は香奈ちゃんの顔より後ろの人たちの嫌い度のほうが優ってるんだよねごめん香奈ちゃん浮気じゃないの。
「…香奈ちゃん、私もう部活辞めたから」
「退部届は受理してないけどね」
うざ。どこのどいつですかさっさと部活辞めろとか散々言ってたのは。
香奈ちゃんには悪いけど私は部活になんてこれ以上参加する気ないんだよ。
「ごめんね香奈ちゃん。今日は用事あるから」
「じ、じゃあ明日は?明後日は?その次はっ!?」
悲痛そうにも聞こえる叫び。
けど───香奈ちゃん、ごめん。
なにもひびかないや。
「……わたし、嫌われちゃったのかなぁ」
ぽつりと河合が呟く。
梓紗の背中はとっくに見えなくなっており、そこには河合とレギュラーたちだけしかいなかった。
悲しそうに呟く河合に、しかしレギュラーたちは何も言えない。
実際こうなってしまった原因は彼らにあるのだし、彼らが梓紗を好意的に受け止めていれば、河合とは良い関係になっただろう。
まあ、今さらそんなこと言っても、もう遅いのだけれど。
だが、実はレギュラーたちは少し焦っていた。
あの日から。梓紗が部活に顔を表さなくなった時から。
テニス部では、少しずつではあるが仕事が滞るようになっていた。
より正確にいうなれば、梓紗がマネージャーとして入部する前の状態に戻ったというべきか。
彼女がいなくなってからようやく気付いたのだ。
梓紗がどれだけ献身的に働いてくれていたか。
今まで仕事をしていないと決めつけていたが、実のところ一番働いてくれていたのは梓紗だった。
河合は少し不器用なところがあるから、すべての仕事ができるわけではない。
そのできない部分──いわゆる裏方の仕事を補ってくれていたのが梓紗だった。
それに気づかなかったのは、愚かな自分たち。
きっと彼女はもう自分たちに…河合にすら振り向いてくれないだろう。
だが、仕方がない。
何も、できない。
どうしようも、ない。
自業自得といえばそれまでだ。
けれど彼らは歩み寄ることすら許されない。
謝ることすらも。
やり直すことすらも。
「リョーマっ!おかえり」
「梓紗…?なんでいんの」
部活が終わり、帰宅したリョーマを出迎えたのはエプロンをつけた梓紗だった。
満面の笑みで、ハートマークを飛ばしそうな勢いの梓紗に、リョーマは思わず目を瞬かせる。
梓紗が今住んでいるのは神奈川県。
今日は平日で、学校も部活もあるはず。
けれどここに、今、梓紗がいるということは──
「へぇ…?」
そこまで思考を働かせて、リョーマは口元に浮かぶ笑みを隠せなかった。
つまりそれは、梓紗が部活を辞めたか、少なくとも参加はしていないということだから。
たとえテニス部で好意的に受け止められていたとしても、どちらにせよリョーマとしては気に入らない。
自分の愛する梓紗の周りに自分以外の存在があることも、自分の愛する梓紗が嫌われるのも。
存外リョーマは、特に梓紗に関してはワガママになることが多いし、それは自覚済みだ。自重する気はないが。
「で、今日は何?」
「明日休みだから、泊まろうかと思って!」
「…服とかどうすんの」
梓紗は制服の上からエプロンをつけている。
時間的にも、おそらく学校が終わってから直接ここに来たのだろう。
この家に泊まることは全く問題ない。
今までだって互いの家に泊まったことは何度もあるし、双方の家族同意の上だ。
ただの純粋な疑問。
「え、この前泊まった時のあるでしょ?ブラとパンツ。服は最悪リョーマの借りるし」
「ねぇちょっとは恥じらいって言葉覚えたらどうなの」
さすがのリョーマも言葉くらいで照れることはないが、女子としてそれはいかがなものか。
…まあ、それほど信頼されている、ということなのかもしれないが。
なによー!と不満そうに唇ととがらせる梓紗。
リョーマはふっと笑みを浮かべると、梓紗の腕をとった。
そして、リョーマの唇が梓紗の唇をかすめる。
梓紗は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうにえへへと笑った。
Do not trust.
(ご飯出来たよー!)
(……梓紗、成長したね)
(え?)
(いや、昔のアレに比べるとさ)
(見た目グロかったじゃん)
(ひどい!)
(で、でも食べてくれてたじゃんかー!)
(そりゃ、せっかく梓紗が俺のために作ってくれたんだし)
(まずかったけど)
(そうなの!?)