黒医者の話

□第一章
1ページ/5ページ

良い香りがする。

「珈琲をいれたんだが、お前さんも飲むかい?」
「いる」

声のした方向に手を出すと掌にマグカップの持ち手を押し当てられた。指を引っ掛けてカップを受け取る。
うん、良い香りだ。少しぬるい。

「ありがと」
「ああ」

カタリと椅子が床に当たる音と、紙の擦れる音と珈琲に紛れたインクの匂い。多分テーブルで新聞でも読んでいるのだろう。

「ちょっと、ラルゴ!おとなちくちなちゃい!!」

心地良い静寂を破るように、浴室からピノコちゃんの怒鳴り声が聞こえてきた。

「キレーにちないと、ビョーキになゆんやよ!ラルゴ!!もー、どーしてゆーこと聞けないの!」
「…おーおー、今日もやってるねぇ」

珈琲のお供に今日も元気なやり取りを楽しんでいると、電話が鳴った。

「ん?」
「こらー!にげちゃだめー!!」

電話の音とピノコちゃんの怒鳴り声がかぶる。一人と一匹の走る足音がリビングに向かってくる。

「はい」
「まてー!!まちなさーい!!」

どうやら先生が電話しているのに気付いていないようで、大声を上げながらそのままリビングでぐるぐるとラルゴを追い回す。

「……あ?…は?…六歳の女の子?え?細菌の種類が分からない?」

やはり聞き取りにくいのだろう、彼は何度も電話の相手に言葉を聞き返していた。

「ちぇんちぇ〜!」
「ピノコちゃん、先生電話してるからもうちょっとだけ静かにしようなー」
「そんなころゆったってラルゴがー!!」

聞く耳を持たない様子。
ピノコとラルゴの首根っこでも掴んで大人しくさせるかなどと思案していると、どちらかがテーブルに突っ込んでしまったようで花瓶などの複数の陶器が割れる音がした。

「…とにかく今は忙しくてね。その話はいずれまた」

あまりにもうるさくて相手の話を聞くのは難しい判断したのか、先生はやや強引に話を切り上げて受話器を置いた。

「ラルゴ、おとなちくちなちゃいって」
「くぅ〜ん」

もう走り回る音もしなくなりラルゴの降参したとでも言いたげな鳴き声からするに、彼女はようやくラルゴを捕まえたようだ。
一面の惨状を目の当たりにしたのであろう先生が溜め息を吐く。

「ラルゴ!それにピノコもだ。本当に注射をしてやるぞ」

低い声に、更に凄みをきかせる。

「!?いやーん、ちぇんちぇーごめんなちゃ〜い」

素直な謝罪にだいぶ気を良くしたようで、彼のふっと小さく笑った声が聞こえた。

「後始末はちゃんとするんだぞ。悠の為にも、破片一つ残しちゃダメだ」
「怪我して怒られたくないし、俺からもお願いしまーす」
「はぁーい」

たしかに、さすがの自分でも小さな破片があるかないかは分からない。スリッパの中に破片が入るなんて事態はできれば避けたいところである。

「ラルゴ!シャワーは浴びてもらいまちゅからね!!」

だが掃除よりもラルゴのシャワーが先らしい。
お、お願いしたのに…なんてこった。くぅ〜んと情けない鳴き声を上げてラルゴはまた浴室へと引き摺られていく。いや、そんな鳴き声を上げてやりたいのはこっちだ。
今はまだ珈琲が残っているからいいが、なくなったらどうしよう。二十分そこらも時間を持て余さなければならないのか。というか二十分?三十分?で終わらせてくれるのか?

「悠、しっかりカップを持っていたまえよ」
「ん?おっ」

耳元で声がしたかと思うと、膝裏と背に手を添えられ、ソファから一気に身体が離れて安定感が失われた。
多分横抱きにされているのだろう。マグカップの中身があと半分でよかった。

「…で、どこに連れてってくれんの?」
「……」

返事がこない。零さないように珈琲をすする。

「……」
「……」

ガチャリとドアを開ける音がした。
濃くなる慣れ親んだ匂い。

「…先生の部屋か」

多分ソファに降ろされた。
…違う、背もたれが無い。がベッドにしては硬い。……診察台…?自室ではなく診察室だったようだ。

「診察室では不満かな?」
「いやいいけどさ」
「お前さんの部屋まで行くのも面倒だし、一人じゃ今は部屋から出ることもできんだろう」

だからなんも言ってねぇじゃん先生。
なにか言う代わりに、珈琲を口に含んだ。

「…目の調子は?」
「絶好調」

触るぞ、の言葉から返事をする間も無く突然瞼に触れられ、びくりと肩を揺らしてしまう。

「目を開けて」

普段閉じている目を開けた…つもり。開いてても閉じてても何も見えないので自分ではよく分からない。

「うーん…、特に異常はないんだがなあ…」

二本の指で瞼を上下に広げられる。
…だんだん乾燥してきた。いつも瞑っているので乾くのが早い。正直痛い。
耐えきれずにカップを脇に置いて手を掴んで顔から引き剥がし、開いていた目を何度か瞬きさて閉じる。

「まあ、治ってるんだろうな」

掴んだ手を指で形をなぞる。長いし男の割には細い指だと思う。

「患者が自分で診断するのもなんだけど、多分これ、精神的な類じゃないかな。よくあるだろ、そういうの」
「当然、その可能性もあるだろうな。なんにせよ、私の患者である以上は見えるようになるまで治療はさせてもらう」
「ハイハイ、毎日感謝しておりますぅ。多分記憶が戻って原因が分かればすぐだと思うし」

そう言いつつ思い出そうとしてみるも、もやがかることもなく、何かを忘れている、くらいの感覚しか無い。諦め混じりに唸っていると脳の海馬がどうこうと言われたが首を傾げるしかできなかった。

「もういい、暇だし邪魔しないように昼寝するからごゆっくり」

返事がなかったので勝手に了承と取り、手探りでカップを取り残っていた中身を飲み干し自室に戻ろうと立ち上がる。普段は入院患者用の部屋を自室として使わせてもらっているのでここからならガラス片を気にしなくて済む。

余談だが、自室とはいえやはり入院患者用の部屋なので、患者が来ればピノコちゃんか先生の部屋にお邪魔する事になる。この上なく面倒なのだが、それ程部屋数もなく居候の身である自分には従う以外の予知はない。


辿り着いた自分のベッドへと腰を降ろす。すると勢いよく肩を押されてベッドに押し倒されてしまった。
犯人なんて一人しかいない、扉の開く音が聞こえなかったので後ろを着いて来ていたのだろう。

なんて考察をしているうちに自分を跨いでベッドに転がる気配。

「…なに、夜這い?まだ昼ですけど」
「誰がそんなことするか。言われた通りゆっくりしに来ただけだ」
「……自室でどうぞ」
「それだと用がある時お前が出て来られないだろう」

呆れた声音になんで何もしていないのに怒られるんだとムカっ腹が立ったので、ぶっきらぼうな親切に細やかな抵抗として隣の胴を軽く殴り背を向けて寝る体勢になる。

「…おやすみ、先生」
「ああ、おやすみ」
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ