灰の虎とガラスの獅子
□C達の邂逅/越して来た女
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常に風を感じられる街､風都｡
人は優しく､風はそんな人々の間をすり抜けて声を､そして気持ちを運ぶ｡観光地と言う訳では無いが､過疎化している訳でも無い｡ごくありきたりな｢政令指定都市一歩手前｣な印象の街だ｡
風車が多く存在し､いかにこの街が｢風｣を感じようとしているかよく分る｡
そんなこの街に､私はやって来た｡
それこそ風に呼ばれた様に､ふらりと｡
｢風都……良い街だわ｣
軽く伸びをしつつ､私は新居……と言ってもマンスリーマンションだが……の窓を開け､新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む｡
この街に越して､最も気に入ったのは､何と言ってもこの空気の心地良さ｡
今まで｢ある事情｣のせいで､様々な土地を転々として来たが､ここには長くいられそうな気がする｡人は優しいし､何よりこの部屋から見える町並みが気に入った｡
思いながら景色を堪能していると､隣の部屋の住人がひょっこりと顔を出す｡
ボサボサ頭で､無精髭を生やしている上に､口には似合わないシガレットチョコを咥えている｡煙草ではない辺りが微笑ましい｡
二十代前半だろうか､がっしりとした体つきに､背はスラリと高く､整えれば結構なハンサムであろうに……勿体無い｡
｢んあ？｣
思わず見つめていた私に気付いたのか､相手はこちらに気付くと不思議そうな表情を見せ……
｢隣は空き家だったと思ったんだけど……何､あんた､越して来たの？｣
｢あ､はい｡つい先程｣
にこ､と作った笑顔を向け､私はその男に言葉を返した｡同い年位だと思われているらしく､話し方は割とフランクだ｡それに､結構良い声をしている｡よく通るバリトン｡実に勿体無い｡先も述べたが､整えれば十中八九の女が振り返るだろうに｡
そんな私の思いに気付いているのかいないのか､男はふーん､と気の無い返事を返すと､咥えていたシガレットチョコを口から離し､これまた気だるげな感じで一言｡
｢俺は隣人の灰猫……灰猫 弓だ｣
言いながら､彼は指で宙に字を書く｡｢灰猫｣と言う苗字も変わっているが､きゅうと読んで｢弓｣と書く名も珍しい｡
｢……あんたは？｣
｢あ､彩塔 硝子と申します｣
問われ､名乗っていなかった事を思い出し､私も灰猫さん同様､宙に自分の字を書いて､作り笑顔のまま深々と彼に向かって頭を下げた｡
私の場合､読みは普通だが漢字は間違いなく勘違いされる苗字だ｡
｢……この街は気に入ったかい？｣
｢ええ､とても｣
｢そりゃあ良かった｣
私の答えに満足したらしく､灰猫さんはニンマリと笑った｡笑い方を見ていると､まるで西部劇に出てくる悪役のようだ｡
｢俺ぁ､この街で生まれ育ったからな｡気に入ってくれるのは､嬉しい｣
悪役のような笑顔のまま､それなのに照れた少年のように彼はがりがりと後ろ頭を掻き､私に向かってそう言った｡
恐らく､この街に誇りを持っているのだろう｡生まれ育ったと言うのだから､当然と言えば当然か｡
｢ここは風の生まれる街であり､風の帰ってくる街でもある｡良い事もあれば､悪い事もあるが……まあ､概ね良い街だ｡保障する｡ようこそ､風都へ｣
風の生まれる街であり､風の帰ってくる街……か｡そう表現できると言う事は､それだけこの人はこの街が好きなのだろう｡それも妄信的に好き､と言う訳ではなく……光と影の両方の顔を持っている事を知っていながらも､好きと言える……ある種､恋愛感情に近いものがあるのかもしれない｡
外見は少々残念ではあるが､良い人のようだ｡直感でわかる｡
そう理解すると､相手に敵意を抱かせぬよう､作り笑顔を止めた｡どれだけの付き合いになるのかわからないのだし､善良な一般市民に対して作り笑いは失礼に値する｡
｢後で引越し蕎麦､お持ちしますね｣
｢お､ありがとさん｣
私の言葉に､やはり悪役めいた笑顔で彼はそう言うと……ふと､視線を顔から私の右手に移し､不思議そうな表情に変わった｡
……しまった｡
と思った時には既に遅く､彼は不思議そうな表情のまま､私の右手を指さし……
｢こんな事聞くの､失礼だとは思うんだけどさ｡右手……どうかしたのか？ そっちだけ手袋してるなんて｣
そうなのだ｡私は普段､右手だけに白い手袋をしている｡
これには事情があるのだが､それを明かすのは流石にまずい｡と言うか､出来る事なら明かしたくない｡それこそ､死ぬまで｡
そう思った私の表情が､暗いものに見えたのだろう｡灰猫さんはばつの悪そうな顔になり､がりがりと頭を掻き毟ると､小さく一言呟いた｡
｢あー……悪い､プライベートだな｣
｢すみません｣
私が謝った事で､更に慌てたらしい｡彼は､それこそ言い訳のように早口で言葉を並べ立てだす｡
｢いや､良いって｡誰だって秘密の一つや二つ､抱えてるもんだろ？ 俺だって､知られたくない秘密はあるし｡うん､今のはナシ｡忘れてくれ｣
それだけ言うと､彼はばつが悪そうな表情のまま､｢それじゃ｣と言って部屋の中に引き返してしまった｡
……申し訳ない事をしたと思うが､右手の｢これ｣は､知られるべきではない｡例え､彼がこの｢紋章｣の意味を知らなかったとしても……
さて､私……彩塔硝子は､｢事情｣のせいもあって定職には就いていない｡所謂フリーターだ｡様々なアルバイトを掛け持ちして､それで生計を立てている｡
故に､色々な職を経験している｡スーパーのレジ打ちは勿論､少々特殊な｢マグロ｣まで｡人が忌避するような仕事が多かったように思えるが､そう言う仕事ほど実入りが良かったりする｡
とは言え､この街にはそう言った仕事自体が少ないらしい｡数日､色々な所を回って見つかった仕事と言えば､本屋のアルバイトと派遣清掃員の仕事の二つだけだった｡
まあ､仕事にありつけるだけマシか｡
などと思いながら､本の陳列に勤しんでいた時｡ふと､平積みになっているファンタジー小説に目を止めた｡
帯の煽り文句には､｢主人公の苦悩が深く描かれた傑作!!｣の文字が躍り､ポップにも｢サイコーに泣ける｣とか書かれている｡何よりも目をひいたのは､その小説の作者名｡
――刃稲 虎丘――
｢彩塔さん､その本読んだ？｣
｢……いえ､まだ｣
額の広い店長に問われて､私は正直に首を横に振る｡すると彼は､それはもう物凄い勢いで両目を開くと､その本を一冊､私にぐいぐいと押し付けて熱弁を奮い始めた｡
｢これはね､ある事故を境に､人間から化物になってしまった青年が主人公なんだ｣
｢化物……ですか？｣
｢そう｡人間の中で穏やかに暮らしていきたい､だけど今の自分は人間ではなく化物……バレたら､どれ程仲の良い人も彼から遠ざかってしまう｣
｢はぁ……｣
｢でもね！ それでも主人公は､自分の正体がバレても良いから､人を守りたいと思って戦うんだ｡涙無くして､この物語は読めないよ!!｣
どうやら店長､この本の熱烈なファンらしい｡声の中には熱狂的なファン特有の､盲信的な｢愛｣が満ち溢れている｡
――人間の中で､穏やかに暮らしていきたい異形の物語､か――
心に苦い物がこみ上げるが､それを表に出す程私は未熟ではない｡にこやかな作り笑顔を店長に向け､馬鹿っぽく｢そうなんですか､面白そうですね〜｣と言葉を返しておく｡
こういう時は､馬鹿を演じておいた方が無難である事を､私は知っている｡下手に否定の言葉を口にすれば､居辛くなるからだ｡
｢彩塔さん､これあげるから読んでみてよ｡丁度明後日､うちで刃稲先生の『サイン会＆握手会』もある事だし｣
｢え？｣
｢あれ､言ってなかったっけ？｣
サイン会などと言う大きなイベントがあるなど､普通は聞かせる物だと思うのだが……そこはこの街の人間性なのか､割と伸びやかな……悪く言えば抜けている……所である｡
｢だから､明後日は忙しくなると思うけど……よろしくね｣
｢はぁ……｣
気のない返事を返しながら､私は押し付けられた本をじっと見つめる｡
本当は､あまりこう言った小説に興味はないのだが……あらすじを聞いた感じでは､読んでみるのも良いかもしれないと思った｡
どの程度､｢異形の心情｣が書き表せているのかを､確認したくなったのかもしれない｡
家に帰りつくなり､私は勧められた本を読み始めた｡
主人公の青年は､何者かに階段から突き落とされ､運悪くその生を終えた｡終えたはずだった｡しかし､その｢死｣がスイッチとなり､青年は｢人間と虎の力を併せ持つ異形｣として蘇る｡
普段は人間の姿で生活できるのだが､感情の昂ぶりで異形としての姿を見せてしまう｡
人間を襲うつもりなどないのに､｢異形｣としての自分の姿を見た人間は､皆口汚く彼を罵り､迫害する｡
人間に守る価値などあるのだろうか､いっそあのまま死んでいれば良かったと苦悩しながらも､それでも人間を愛して止まない彼は､人間の中で生きようと努力する｡
だが､｢異形｣と化したのは彼だけではなかった｡他にも､｢死をきっかけに､人間と動植物の特性を持ち合わせる様になった異形｣が存在しており､しかも彼らは人間を｢下等生物｣と決め付けて人間に襲い掛かる｡
……迫害されながらも､そして己の持つ｢異形｣としての力を忌み嫌いながらも､青年はその力を使って人間を襲う｢異形｣達と戦う……
そんな､ストーリーだ｡
ヒトから異形へ変わってしまった青年の苦悩が､緻密な描写で描かれている｡同時に､自分と同じ様に｢異形｣と化した者……即ち､同族と戦う事になった悲痛な決意も､私には痛々しかった｡
成程､確かに泣ける話だ｡想像の産物にしては､よく出来ている｡
生まれながらの異形､と言う訳ではない辺りが､特に人気なのかもしれない｡ヒトで無いものに変わってしまった恐怖は､読んでいるこちらが身震いする程克明に描かれていた｡
唯一の難点は､ファンタジー物には大抵付いて来る｢恋愛要素｣が無い事だろか｡元々､そう言う要素を求めてしまう性格であるが故に､それが少々残念でならない｡
図らずも一気に読みきってしまった私は､軽く一つ息を吐き出す｡無意識の内に､緊張していたらしい｡肩が痛いし目の奥は重い｡
｢……疲れた……｣
そう､ポツリと呟いたその時｡部屋のチャイムが鳴った｡
誰だろう？
不思議に思いつつ､ドアスコープを覗くと､そこにはボサボサ頭に無精髭の青年……お隣の灰猫さんが､手に何やら持って立っていた｡見たところ､お裾分けの定番である肉じゃがだろう｡
｢はい？｣
｢あ､こんばんは｡ちょいと作りすぎたんで､お裾分けに｣
出てきた私に､彼はずいと小鉢を差し出す｡
ふわりと､だしのきいた良い香りがする｡随分と料理上手な印象だ｡……見かけによらず｡
｢ありがとうございます､灰猫さん｣
｢……無用心だな｣
小鉢を受け取り､にこやかに言った私に対して､灰猫さんは眉を｢へ｣の字に曲げて言った｡
確かに､無用心かも知れない｡いくら相手が灰猫さんだからと言って､何の警戒も無く扉を開けてしまったのだから｡
｢俺が､あんたを襲うつもりだったらどうしたんだ？｣
｢そうですね……返り討ちにしました｡これでも､護身術には覚えがありますから｡並の人間相手なら､ある程度対処できると自負しています｣
これは､嘘偽りの無い本心だ｡並の……普通の人間なら､私の敵ではない｡何故なら私は……
｢……人間ばかりとは限らないんだ｡特にこの街は……な｣
｢え？｣
｢とにかく､気をつけなよ？ 最近､特に若い女ばかりを狙う通り魔が出没してるって噂だ｣
それだけ言うと､彼はひらひらと手を振って自室へと戻って行ってしまった｡
えーっと､警告してくれたのよね､多分｡
自分も自室に戻り､さっきの彼の言葉を反芻する｡
――人間ばかりとは限らないんだ｡特にこの街はな――
――最近､特に若い女ばかりを狙う通り魔が出没してるって噂だ――
この街は人間以外の者が､そんなに沢山いるのだろうか｡
と言うか､｢若い女｣に私は果たして当てはまるのだろうか｡
うーん､と唸りながらも､結局私は頂いた肉じゃがをおかずに､食事の支度を始めた……のだが｡
｢お味噌がきれてる……っ！｣
事もあろうに､調味料の｢さしすせそ｣の｢そ｣である味噌が無い｡そう言えばこの間使い切ったんだっけ｡
しまった､これではお味噌汁が作れない｡私の元気の源がっ!!
くぅ､と悔しさのあまり微妙な声を上げると､私は財布を持って近くのコンビニに駆け込む｡ご近所の人に分けてもらう､と言うのも手だが､味噌には好き嫌いや個人の好みがある｡できる事なら自分で選んだものを使いたい｡ちなみに私は赤味噌と白味噌を六対四の割合で混ぜるあわせ味噌派だ｡今回きれたのは赤味噌である｡
一番近い場所にあるコンビニに売っていてくれて､本当に助かった｡後は家に帰って頂いた肉じゃがを温めなおし､お味噌汁を作れば良い｡実はキャベツとワカメと鞠麩辺りが良いだろうか｡
などと､ホクホクしながら家路につこうとした瞬間｡