灰の虎とガラスの獅子

□そのAは崩れない/懐かしめない再会
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誇りのR/彼と私の「誇り」


――『助けてくれて、ありがとう』
 彼女はそう言って、ふわりと笑うと、怪人であるはずの俺の手をとった。一瞬、自分でも意識しないうちに体がびくりと揺れたが、彼女はお構い無しに俺の手を包むように握り……
『大丈夫、私は怖いとは思わないから』
 真摯な瞳で、俺を見つめてそう言ってくれた。
 その言葉がとても嬉しくて……俺は思わず、泣きそうになる――

 そこまで書いて、俺はふぅ、と軽く息を吐き出した。
 物語上のヒロインは、結局主人公の正体を知らないという設定にはしてあるが……受け入れた、と言う時点で、かなり彩塔さんを意識しているように思う。勿論、実際は手なんて握られてないんだが、そこは「恋愛」に発展させる為の脚色って奴だ。
 昨日の夜から書き始めて、既に外は白んでいる。どうやら、徹夜をしてしまったらしい。
 そう認識してしまうと、今まで何とも無かったと言うのに、いきなり眠気が襲ってきた。我が体ながら、現金な物だ。
 よし、寝よう。そして、起きたら続きを書こう。そう思った瞬間。ジリジリと電話が凶悪な鳴り方をしだした。
 携帯電話ではなく、固定電話だから着メロが違うとか、そんなのでは無いはずなのだが……間違いない。この「早く出やがれ、このクズがっ」と言わんばかりの鳴り方は、悪魔のような俺の担当、斉藤(さいとう) 帝虎(テトラ)からだ。
 ……いや待て。締め切りまでまだ余裕があるはずなんだが……?
 自分でも分るくらい恨めしげな表情をして電話に向かい、俺はガリガリと頭を掻きながらその電話に出る。
 と……予想通りと言うか何と言うか。独特な、かんらかんらと言う笑い声と共に、やたらと元気な斉藤の声が受話器の向こうから響いてきた。
『おはようございます、先生。清々しい朝ですね〜!』
「……何ですか、朝一から。原稿の締め切りまではまだ……」
『違いますよぉ、今日は原稿の催促じゃあありません』
 じゃあ何だ。お前が催促以外に電話してくる用事なんてそうないだろう。
 と、言いたいのを堪えながら、俺は彼の言葉の先を待つ。いや、本当に電話の中身に心当たりが無いんだが……?
『先生、明日のサイン会&握手会の事、勿論覚えてらっしゃいますよね、風都ブックスの』
「…………あ」
 そうだった。そう言えば明日、地元の大型書店である「風都ブックス」で、「刃稲 虎丘」の「サイン&握手会」があるんだった。
 うわぁ、今の今まですっかり忘れていた。
『その様子だと、やっぱり忘れてましたねぇ』
「やっぱりって……」
『まあ、とにかく明日それがあるんで。今日中に床屋に行って、そのボサボサの髪を整えて下さい。ついでに服も買っておいて頂けると助かります』
「経費で落ちますか、それ?」
『……かんらかんらかんらっ』
 俺の質問に、わざとらしい笑い声を上げ、奴はとにかくお願いしますねとだけ言ってぶっつりと電話を切りやがる。
 まあ確かに、今のこの格好じゃぁファンの人には申し訳ない。それに、「著者近影」に使用されている写真には、履歴書用に撮った、それなりにまともに見える写真を使っている。……斉藤の言葉ではないが、流石にこのボサボサ頭の無精髭ヤローでは、読者に対して失礼に当たるだろう。作家業は、著者のイメージも大切なのだ。
 ガリガリと頭を掻き毟り、俺は財布を手に取ると……こみ上げるあくびを堪えるような事もせず、物凄く久し振りに、床屋と言う物へと向かうのであった。


「あー、くそ……太陽が眩しい」
 伸び放題になっていた髪をバッサリと切った影響か、今まで前髪で威力を殺いでいた日光が、凶悪なまでの明るさで俺の目を射る。ついでに髭も当たってもらったのは、言うまでも無い。
 これで多少はマシになっただろう。
 とか思いながら、俺はぶらぶらと街を歩き、ある場所に向かう。
 「かもめビリヤード」の上の階にある、知る人ぞ知る場所……「鳴海探偵事務所」だ。
 実はここ、昔俺が世話になった人の事務所で……風の噂では今はその弟子に当たる人物が切り盛りしているらしい。
 その「弟子」って言うのも、俺の知り合いだ。子供の頃からの付き合いだが、流石に俺の正体までは知らせていない。
「ういーっす。翔、遊びに来たぜ」
「弓さん! 久し振りじゃねえか!」
 机の上の書類を慌ててかき集めながら、俺よりも少し年下と思しき青年……(ひだり) 翔太郎(しょうたろう)が、嬉しそうに声をかける。
 そんな彼の横には、不思議そうな表情で俺の顔を見る少女と、特に興味も無さそうにしている、分厚い本を持った青年が立っていた。
「翔太郎君の知り合い?」
「んん? 何だ、翔? お前いつの間に女の子を連れ込める立場になったんだ?」
「何言ってんだよ! こいつはおやっさんの娘だ」
 うりうりと肘で軽く翔太郎を突きながらそう言ってやると、翔太郎の方は心底嫌そうな顔で言葉を返してきた。
 「おやっさん」とは、さっき言った俺の恩人。どうやら少女は、そのおやっさん……鳴海(なるみ) 荘吉(そうきち)の娘さんらしい。
 ……へえ、あの人、こんな大きな娘さんがいたのか……
 感心しながら彼女の顔をよく見ると、確かに似ている部分がある。どこが、とは上手く言えないが……己の信念を貫き通そうとする瞳の色は、確かに似ている。
「そいつは失礼。俺は……」
「あー!! どこかで見た事があると思ったら!」
 自己紹介をするよりも早く、彼女はびっしと俺を指差すと、ソファの上に積んでいた本の山から、一冊の文庫本を引っ張り出す。紺色の表紙には顔の左半分が灰色の虎っぽく変化している青年の絵。
 ……もしかしなくても、あの表紙は……
「『灰の虎』の作者……刃稲さん!?」
「何言ってんだ亜樹子(あきこ)?」
「翔太郎君、知らないの!? 今、すっごく流行ってるんだよ、この『灰の虎』シリーズ!」
 あれ、おっかしぃなぁ。普段なら気付かれないはず……ってはっ! そう言えば俺、ついさっき身形を整えてきたトコだったっけ!?
 って事は、限りなく「著者近影」の写真に近い状態になってるって事か! ああ、そりゃあ、確かにバレるわな……
 と、軽く諦め半分で彼らのやり取りを見やる。
「まさか、ここにも俺の読者がいたなんてな……」
「ややや、やっぱり本物!?」
「ええ、まあ。刃稲虎丘はペンネームで、本名はそのまま、灰猫弓と言います。読んで頂いて嬉しいですよ」
「ふ、ふふふぁふぁ……大ファンです! サイン下さい!!」
 差し出された本の見返しに、ペンネームである「刃稲」のドイツ語表記である「Heine」とサインをし、俺はにっこりと「亜樹子」と呼ばれた彼女に微笑みかける。
 実際、明日サイン会があるんだが……まあ、これくらいは別にいいだろう。世話になった人の娘さんでもある訳だし。
「マジで弓さんが小説家なのかよ……」
「残念ながらマジだ、翔」
 信じらんねー、と言う翔太郎だが、こっちとしても「事実なのだから仕方ない」としか言いようが無い。
 それに、危うく忘れる所だったが……今日ここに来たのには、きちんとした理由がある。そりゃあ、さっきは「遊びに来た」と言ったが……それは荘吉さんがいる時からの「暗号」だ。それを知らない翔太郎じゃ無い。
 ……ひょっとすると、俺が来た理由を忘れているのかも知れないが。
「それで? ただやってきた訳じゃ無いんだろう?」
 騒がしくなりかけたこの空気を一気に引き締めたのは、分厚い本を手に持っていた少年。
 彼は相変らず何の関心も無さそうに、その本のページをぱらぱらとめくりながらも、冷静な声で俺に声をかけたのだ。
「そうだった。弓さん、遊びに来たって言ってたけど……仕事の依頼か?」
「いや、今回は依頼じゃ無いが……『ドーパントのお話』である事は確かだな」
 鳴海探偵事務所は、知る人ぞ知る「怪人に関わる出来事」を解決する探偵が存在する。
 ちなみに、ドーパントって言うのは、この街に出回っている「ガイアメモリ」と呼ばれる物を使って強化、変貌した人間の事だ。
 昨日彩塔さんを襲った奴も、この「ドーパント」に属する。
「例の通り魔事件あるだろ」
「メモリの正体なら見当が付いている。カレントメモリ……『電流の記憶』の持ち主だ」
 俺が僅かに、「通り魔事件」と言っただけで、本を持っている少年は興味無さそうにそう声を上げた。
 いや、まあ……それも言おうとは思ってたけどさ。流石に知ってると言う可能性は考えていたっつーか。出鼻を挫かれた形になりながらも、俺はカリカリと後ろ頭を掻きつつ更に言葉を続けた。
「まあ、その辺は知ってるだろうなと思ってたから、おまけ程度だ。……奴さんの次の狙いが定まった。彩塔硝子……最近この街に来た女性だ」
「マジか!?」
「マジ。だって昨日、奴さんが言ってたからな。『お前の顔は覚えた』って。あれは懲りずに襲う気満々だね」
 正確には「お前らの顔は覚えた」だったが、真っ先に狙うならば「怪人」ではなく普通の「人間」である彩塔さんのはずだ。流石にあの状態で「今の俺」を狙って来れたら凄いと思う。
 思う俺をよそに、翔太郎は驚いたように俺の顔を見やった。
「言っていたって……まさか弓さん……」
「ああ、昨日彩塔さんを襲おうとしている所を邪魔しちまったからな。俺の顔も覚えられたかも」
 ……一応言っておくが、嘘は吐いていない。本当に昨日はあのドーパントの邪魔をしたし、俺の顔も覚えられている。……「怪人」としての顔だが。
「無茶はしないで下さいよ、弓さん」
「何言ってんだ、翔。『男が女を守るのは、紛れも無い正義』って、荘吉さんの名言を忘れたのか?」
 クス、と笑いながら言った俺に、翔太郎は苦笑するように口の端を歪めると、そうだったっけかな、などと惚けてくる。
 翔太郎は、紛れも無く鳴海荘吉の後継者だと、俺は思う。あの人程クールに徹しきれない部分はあるが、この街を愛し、そしてこの街に流れる涙を拭おうとする熱意は、間違いなくあの人と同等……あるいはそれ以上だ。
 それに、注意力は散漫だが記憶力は人並みより少し上、程度にはある。ハードボイルドを気取ってはいるが、結局は非情に徹しきれない甘さがある。だが、俺はそれでいいと思っている。
 鳴海荘吉には鳴海荘吉の、そして左翔太郎には左翔太郎の「探偵」があるのだ。ハードボイルドに拘る必要はどこにも無い。
「それじゃ、伝えとかなきゃならない事は伝えたからな。後は好きに料理しろ」
「何だよ弓さん、もう帰るのか」
「まあな。明日、風都ブックスでサイン会があるから、その下見もあるし……それにお前、今別件抱えてるだろ?」
 彼の机に置かれた書類の山を指差し、俺はひらひらと手を振って扉を開ける。
 俺が来た時に隠したという事は、恐らく別件……それも、この件よりも更に厄介なドーパント絡みだろう。それを邪魔するつもりは毛頭無い。
「んじゃ、またな」
 そう言って……俺は「鳴海探偵事務所」を出たのである。


 さてと、それじゃあ会場の下見にでも行きますか。
 そう思い、風都ブックスへ向かおうと歩き出したその時。
 ……何だ、この感覚。誰かに、見られている……?
 視線を感じ、俺は大袈裟にならないくらいの仕草で周囲を見回す。好奇とか友好とか、決してそんな好意的な視線ではない。どちらかと言えばねっとりと纏わり付く様な、そんな視線。
 そして……俺は人垣の中に立つ、視線の主に行き着く。
 黒い、紳士風の服装に身を包んだ男性だ。紳士風、と評したのは、あくまでそう見えるだけだと思ったからであり、纏う空気は紳士とは程遠い。
 俺の事を観察するかのような視線と、妙に楽しそうな笑顔が気に障る。
 ……ってちょっと待て。俺、あの人どこかで見た事があるような……
 視線を振り切るように早足で歩きながらも、俺は今さっき視界に入った男性の顔を思い出す。
 眠そうな半眼、やや広めの額、細面と評して差し支えない程度には細い顔。その顔に合致する記憶は…………あった。
 あったよ、思い出したよあの顔。
 確か「井坂内科医院」の院長、井坂(いさか) 深紅郎(しんくろう)先生だ。俺がオルフェノクになる前に、一回あの人に見てもらった事があったっけ。
 思い出すと同時に、俺は少し歩調を落とし、追い越していった車のバックミラーで相手の姿を確認する。
 間違いない、井坂先生だ。しかし、こんな真っ昼間から何やってんだ? 今日は休診日じゃなかったはずだ。それに、あの視線……自意識過剰でないならば、間違いなく俺に向けられている。
 ぞくり、と背中に冷たい物が走り、俺は出来るだけ人気の無い方向へ向かって早足で歩く。本気で走っても良いのだが、それだと人間としてはあまりにも不自然なスピードになってしまう。
 ひょいひょいと人の間をすり抜けて、ようやく俺は人気の無い場所……俺がよく、オルフェノクをおびき出して叩きのめすのに使う廃工場へとたどり着いた。
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