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下弦の月[3]


昼下がりの休日。
陽気がいいせいか、何となくそんな気になって、砂月は外へ出た。
こんな澄んだ青空の下でなら、いい曲が書けそうなのだが、それも昔の話だ。
音楽家の道を諦めた今は、創作活動は意味を持たない。
音楽を中途半端には出来ない。それならいっそ、全て切り捨ててしまったほうがマシだ。

大都会の交差点を渡る。砂月は人ゴミに潜りながら、目の前の高層ビルを見上げた。
巨大なスクリーンが、アイドルの歌を道行く人々に届けている。
いつかこの大画面に、那月が映る時が来るだろうか。自分はその時、どうしているのだろう。

「あ、あのっ」

砂月は足を止める。交差点を渡り終えたところで、女の声に呼び止められたのだ。
次の瞬間、服の裾を掴まれる。
振り返ると、何とも気弱そうな少女が、自分の姿をまじまじと見上げて、

「よかった…やっぱり那月くんだったっ」

兄の名前を、口にした。突然のことで、反応ができなかった。

「でも…どうして、こんなところに?今日は…親戚のお家に行くって…確か、池袋、でしたよね?」

女の言っていることが、砂月にはさっぱりわからない。そもそも、この女の存在自体、知らない。
那月の知り合いなのだろうが、少なくとも那月の口からは、一度も、聞いたことがなかった。

「あ、ええ…ちょっと用事を思い出したので、寄り道してたんです」

何の情報もない相手に対して、それ以上の“那月”を繕えなかった。
砂月を那月だと疑わない彼女は、たぶん、砂月の存在を知らない人間だ。
「那月の弟だ」と暴露してもよかったが、自分はやはり何処か、世間に出てはいけない類の人間であるという、
劣等感が未だに燻っていて、咄嗟に“那月”の仮面で、砂月を隠してしまった。

「そうなんですか。あれ、お荷物は、何処かへ預けたんですか…?寮を出るときは、たくさん持ってたのに…」

砂月は手ぶらだった。
寮、と聞いて、彼女が早乙女学園絡みの人間なのだろうと踏んだ。
気軽に「那月くん」なんて言っているあたり、それなりに親しい間柄なのかもしれない。
ああ、それにしても、この女は、那月が好みそうなタイプだ、と思った。
那月と女の話をすることはほとんどなかったが、前に、背が小さくて、陽だまりみたいな女の子が好き、
と言っていたような気がする。
彼女は、その言葉がぴったりだった。

「荷物は重いので、コインロッカーに置いてきたんです。用事は済んだので、そろそろ池袋に向かおうと思います」
「あ、そうですよね…あんまり時間、ないですよね…」

これ以上会話を続ければボロが出ると、砂月は適当な理由付けをして切り上げようとしたが、
彼女はもう少し話をしたげだった。
どうやら、那月のことを気に入っているらしい。どの程度かはしらないが。

「楽譜書いてきたので、少し目を通してほしいなって…思ったんですけど」
「………」
「あ、でも明日でもいいです!明日も練習できますし」

察しがついた。
早乙女学園には、アイドル歌手希望と、作曲家希望の二種類の人間がいる、と聞いている。
この女は、作曲家を目指しているのか。それで友達の那月に、曲を聞いてもらおうと言うのか。

「ごめんなさい…今日は本当に急いでいて。あ、でも楽譜は見たいので、預かってもいいですか?」

那月なら、相手をがっかりさせないように、こんなふうに気遣うだろう。
彼女が一瞬だけ思案顔になったことに、気づかなかった。

「本当ですか。じゃあ、これ…荷物になってしまってごめんなさい」

そう、何枚もの譜面を寄越してきた。
作曲は自分も経験があるから、興味はあったが、これは那月への譜面だ。

「ありがとうございます。向こうに着いたら、すぐに見ますね!」

なるべく、明るい“那月”を演じた。

「え…あ、はい……お願いします…」

彼女が首をかしげた。不自然な演技だっただろうか。
他人行儀すぎたか。または馴れ馴れしすぎたか。砂月は内心冷や冷やした。
この場を早々に立ち去ることに限る。

「ごめんなさい、電車の時間がもうすぐなので…今日はもう、失礼しますね。楽譜、ありがとう」
「は、はい…那月くん?また明日…」

強引な逃げ方だったかもしれないが、それより早く、那月に聞かなければ。
今日のように、早乙女学園の人間とばったり、なんてこともある。
あの女の言う通りなら、今頃、池袋の親戚の家で、食事でもしているかもしれない。




「そっかあ、ハルちゃんに会ったんですね!」

連絡が取れたのは、砂月がアパートに帰ったあと、日が暮れてからだ。
大都会の交差点での出来事を話すや否や、はしゃいだ那月の声が返ってくる。

「クラスメイトなのか?」
「うんっ。クラスメイトでもあり、彼女は僕のパートナーなんだよ」
「パートナーっ?」

初耳だ。他の仲間の話は幾度か耳にしていたが。

「ハルちゃん。七海春歌ちゃん、って言ってね…とっても可愛い女の子でしょう?自己紹介の時に、
彼女はピアノの演奏を披露したんだけど、すごく感銘を受けて…それで思い切って、『僕のパートナーになってほしい』って、
声をかけたんです。そしたらOKもらえて」
「パートナーって、何のパートナーなんだ?」
「彼女は、一緒にデビューする子なんだよお。早乙女学園は、アイドルコースの人と、作曲家コースの人が組んで、
卒業オーディションで優勝すれば、そのペアでデビュー出来るらしいから。彼女は、これからずっと、
僕の音楽パートナー」

聞いているこちらが圧倒された。それだけ、那月は嬉しそうに、彼女の話と、これまでの経緯を語る。
それほど重要な位置を占めている人物の話を、なぜ今の今まで、那月は一言も口にしなかったのだろう。

「あ、そうだ。彼女から預かり物をしてるんだ。お前に見てほしいって」
「預かり物、ですか?」
「楽譜だってさ。卒業オーディションの曲なのか?」

何気なく振った質問に、受話器の向こうの空気が、急に張り詰めたような気がした。

「さっちゃん、見た?」
「え?」
「その楽譜、見たのかなあ、って思って…」
「いや、まだ…見てねえけど…」

気のせいだろうか。那月の声が、いつになく低い。

「そう…それならいいです。ごめんね、わざわざ。今から行ってもいい?明日までに目を通さないと」
「ああ、別にかまわねえよ」

穏やかでない、会話の切り上げだった。
大人になろうと、離れていようと、那月の心の清らかさだけは、変わらないものだと思っていた。
それなのに、自分が、あの女と接触したことを、どことなく、よく思わないような口ぶり。試すような、言葉の投げ方。
那月は相当好いているのだろう、あの女を。もしかしたら、恋愛感情かもしれない。
早乙女学園での生活は、良くも悪くも、兄に、那月の純白な心に、少しずつシミをつけている。
子供のような無邪気さのままで、あの世界は、生き残れないだろうから。


「七海春歌、か…」


那月のなかに住みついた、女の影。
自分のなかにも那月が存在するなら、もしかしたら、自分も気に入るだろう。
そうなったとしても、自分は、彼女の楽譜を見ることすら許されないのだ。




「あ、那月くん、おはようございます…」

Aクラスに顔を見せると、すかさず寄ってきたのが、七海春歌だった。
この子に悪い感情などは無縁だと思うが、どことなく、ぎこちなさを含んだ瞳で、那月の顔を覗き込んでくる。
砂月から聞いている、交差点での件を気にしているのだろう。

「おはようございます!そうそうハルちゃんっ」

この子を不安にさせちゃいけない。那月はすぐさまカバンから楽譜を取り出す。

「見ましたよ、ハルちゃんの曲…」
「あ、ど、どうでした…?」

楽譜のことを、かなり気にしていたのだろう。
愛らしい大きな瞳を見開いて、おろおろしている彼女が可愛い。
あまりに可愛らしいので、勢い余って言葉より先に、抱きついてしまった。

「ああ、もう最高ですっ。ハルちゃん大好き!」
「え、えええっ、あ、あの…っ」

いつもと様子が違う那月に出くわして、驚かせてしまったと思う。
だから今日はいつも通りに、いつも以上に抱きしめてあげたい。

「音符を追っていたら、気づいたら歌っていたんです…歌詞も、ビビっと来ちゃったので、早速ほら」
「あ…」

彼女を解放して、譜面を見せる。音符の下に、文字が散りばめられていた。
何度か瞬きをしたあと、春歌は目を輝かせる。

「素敵です…何だか、銀河に飛んでってしまったような気分です」

彼女とは本当に感性が合う。
今まで、型通りの上品な音楽を奏で続けていた那月は、そうでない音楽を奏でると、周囲が奇異の目を向けてくる。
しかしこの子は、自分が音楽に対していかなる挑戦や革命を試みても、しっかり受け入れ、ついてきてくれる。
それがたまらなく嬉しかった。

「ねえ。今日は一回合わせて録音しませんか?もっとイメージが膨らむかもしれません。昨晩譜面に目を通したら、
あなたの歌を早く早く歌いたくなって!」
「よかったっ。わたしも、那月くんが歌う姿を想像しながら作ってたんです…だから早く聞きたい」

はにかみながら、彼女が視線を逸して言う。
ふたたび抱擁したい衝動に駆られながらも、那月は本能を叱咤して抑える。

「録音したら、ちょっと外に遊びに行きませんか?」
「え、それって…」
「はい。デートですよお」

恋愛禁止の早乙女学園。
那月は天然でもともとスキンシップが好きだから、という理由で、彼女に抱きついたり手を繋ぐ行為は、
大目に見てもらっている。
でも、それだけでは足りない。周りの目があるからだ。


「那月くんと二人で出かけるなんて、久しぶりです…」


ふと目に入った彼女の横顔は、微笑をまぶしつつも緊張気味だった。
行く先は、高層ビルや人や車の音で賑わっていた。彼女は、都会が少し苦手だ。
同じ田舎の生まれでも、自分はこの騒音が、さほど気にならない。
人ゴミに紛れると、彼女が急に、繋いでいた手をぎゅっとしてくる。ああ、可愛い。

「大丈夫ですよお。僕がついてますから。しっかり握ってて…」

彼女と出会ってから、男としての自分を意識し始めた。
それまでは、自分は常に誰かの言いなりで、臆病で、甘えられる人を見つけては極端に懐いて、
自分を守ってくれ、と、たぶん無意識に、持ち前の子供っぽさを武器にして生きてきた。

男としてしっかりしている、というなら、自分よりも、弟の砂月のほうがそうだったと思う。
那月と砂月は双子だから、お互いがお互いになれる、と昔は信じて疑わなかったが、それは結局演技にすぎず、
現実、自分は、砂月ほど賢くなかったから、簡単に人に騙されてしまった。

「那月くん、どうかしたんですか?」
「あ、いえ…なんでもないですよお」

思案顔になっていたらしい。
春歌はおっとりしているようで、那月のことをよく観察している。


「ゲームセンターに、寄りませんか?」


コインが流れる音が、留まることを知らない。学生や、カップルが盛り上がっている。
春歌を気にしながら、奥まで移動すると、たまたま目に付いたクレーンゲームに、那月は大はしゃぎになり、
ガラスに張り付いたまま動かなくなってしまった。

「見て見て!!ピヨちゃんのおっきなぬいぐるみがありますよお!あ、隣のクマさんもかわいいなあ!
うーん、下の子犬さんも…ああ、どうしよう。全部ほしいです!」

那月が可愛いものに目がないことは、春歌もよく知っていて、そんな彼の姿を、微笑ましく見守っていた。

「ふふ、那月くんたら」

くすくすと笑う。那月のような男は、激しく母性本能を擽られるのだ。

「ハルちゃん、どれがいいと思う?ピヨちゃんか、クマさん…うーん…あー選べない」
「那月くん、前にピヨちゃんのおっきなサイズの欲しがってたから、それを狙ったらどうでしょう。
いろいろ狙っちゃうと、一個も取れないかもしれないし…」

那月が迷走すると、この七海春歌が冷静に対処してくれる。
逆もしかり。絶妙なバランスだ。

「頑張ってみます!ピヨちゃんに決めました!」

100円玉を握り締め、投入口に入れる。隣でエールを送る春歌。
勝負事には強いのか、こんな時、那月の集中力は凄まじい。
一発で獲物を手に入れた彼に、春歌も思わず感じ入った声をあげる。
ゲーセンのお兄さんが、営業スマイルで袋をくれる。

「嬉しいなあ。今日から抱き枕にして寝よっと」

ぬいぐるみを抱いて寝るなど、まるで少女の趣味だ。

「那月くん、さっき凄くかわいかったです」

春歌も嬉しそうだ。ゲームというよりも、那月の姿を見るのが楽しかったようだ。
普段はどうしても、子供っぽい面が目立つが、本当は繊細で、変に大人じみたところもあって、
自分が背伸びをして見上げても、キスすら届かない。そこは男の人、だと思わせる。
何気なく惹かれて、春歌は那月の腕にしがみつく。

「ハルちゃん?」
「ごめんなさい…こうしたくて」

そう告げると、ニコっと微笑まれて、肩を抱かれた。

「ねえ、ハルちゃん…」

一通りが少ない狭い路地に入る。
そして、キス。しばらく、二人だけの世界に身をおいた。

「ん、那月くん…」

切なげな声を出されると、どうしても、余計な願望が頭をかすめる。ここは、外だし。

「ねえ、質問していい?」
「え、はい…なんでしょうか」

唇を離したばかりだからか、すこしうっとりした声で、春歌が尋ね返してくる。

「ハルちゃん、僕のこと好き?」
「もちろん、大好きです」

迷わない返事だ。ほっとした。


「じゃあ、たとえばの話。僕がもし、この世に二人いたら…そのもう片方が、あなたの前に現れたら、
あなたは…どちらを選びますか?」


唐突な質問に、春歌は目を丸くした。

「那月くんは、ひとりですよ…?」
「いいえ。この世には同じ人間が3人いるって、よく言うでしょう?」
「そういうお話は、あまり信じられません…」

那月の質問の意図が汲めないのだろう。春歌は不安げになる。


「でもね…僕はその…3人のうちのひとりに、会ってしまってるんです」


え?と春歌が那月を見据える。

「僕はすでに、この世に二人いることを…この目で確認してしまった。それもずっと昔に」
「那月くん、何…言ってるの…?」
「ねえ、ハルちゃん。もしハルちゃんがその人に会って、その人がハルちゃんに迫ったら…僕と、
全く同じ姿をした別の僕が、あなたにどちらかを選べと言ったら……どうしますか?」
「どうしちゃったんですか、那月くん…」

おかしなことを言っている。そんな風にしか、彼女には捉えられないだろう。
那月は少しおどけてみせた。

「ははっ、嘘です。たとえ話。僕はこの世にひとりですよお」
「え…もう、からかわないでください」

春歌が頬を膨らます。そんな彼女の頭を撫でてやる。

「でも、ハルちゃんの答えには興味があります…ねえ、ハルちゃんは、どっちを選ぶ?」
「………」

那月は話を冗談めかせている割に、目は真剣だった。
漠然とはしているが、このたとえ話は、彼の心が何かに怯えている、そんな信号なのかもしれない。


「那月くんはひとりです…那月くんがたとえ、もう一人の那月くんに会っていたとしても、それは那月くんじゃないです」
「………」
「那月くんが二人立っていても…わたし絶対…あなたを選んでみせます」


ああ、どうしてこういう答えをくれるんだろう。
そんなあなたが、好き。

「ハルちゃん…」

あなたを、誰にも、砂月にも渡したくない。


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