アイス

□目が覚めたら
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「おやすみ、カイト」

マスターの優しい声を聞いた後、僕の意識は眠りへと落ちていった。
降り落ちてくる声と共に、少しだけ冷たい手が頬に触れた気がした。









       目が覚めたら








いつものようにマスターが調整してくれたカバー曲を歌って、動画サイトで本家様を聴きながら自分でも歌い方を考えて。そんな日常なのにマスターの部屋がマスターの部屋じゃなかった。マスターの部屋と、近所の老夫婦のお家が混ざっているような。でも全く知らないところもあるような。おかしいのにおかしいとは全然思えない。これが当たり前で、あたかもよく知っている場所であるかのように振る舞っている僕。

「…………」

いきなり黙ったマスターが僕に声をかけることもなく玄関へと向かう。コートも着ないで、財布も携帯も持たないで、靴だけ履いてマスターは出て行った。待ってください、マスターどこ行くんですか?、マスター?、そんな僕の声もまるで聞こえていないようで。
まるで、僕を避けるように。
僕は通常家からは出ない。お買い物も、マスターと一緒か、仕方なく頼まれた時ぐらいだ。だから、マスターの許可もなしに、マスターを追うためだとしても、僕はこの家から出られない。
どうしよう。玄関を見つめたまま僕の体は動かない。動けない。
だって……何をしたらいいのかわからない。マスターを探すことも、追いかけることも、歌うこともできない。
どうしたらいい?ここで、マスターの帰りを待っていればいい?いや、それしかない。僕にできるのは、ここでマスターを待つこと。
だったら、ご飯を作っておこう。お風呂だって用意して。それでもまだマスターが帰ってこないならお掃除もして……それから、それから?
それで、マスターが帰ってこなかったら?温かいご飯が冷めてしまって、お風呂を沸かしてから何時間も経って、いつもより手の込んだお掃除が終わってしまってそれでも、玄関の扉が開かれることが無かったら?
マスターに、捨てられてしまったら……?
そう考えたところで、恐怖。具体的なのに抽象的な、明確なのにわけのわからない恐怖が僕を襲った。

「……っ!!ま、すたっ……ますたっ……ぁ」

どこ
マスターは、どこ
僕を
置いて   行かないで
マスター
ますたー

「マスターっ……ます、た……」

ぽろぽろと涙が零れてくる。人間みたいだ、なんて思った。
僕たちボーカロイドは人間じゃないのに。人間を模して造られた、プログラムなのに。それでも……心はあるのに。ものに魂が宿るように、過程が違っても……僕たちにも魂があるのに。人間じゃないから。この一言が、当たり前だろうそのたった一言が、僕たちを否定する。
人間みたいに笑って泣いて怒って悩んで……それでも、僕たちは人間になれない。
マスターと一緒に居たい。人間だったら、最期のときも一緒に居られたのに。同じ時間を、歩むことができたのに。一緒に、彼方へ逝くことができたのに。
たとえ人間じゃなくても、貴方がいてくれるだけでよかったのに。いつの間にかそれだけでは満たされなくて。
貴方と言葉を交わして、貴方の顔を見て、貴方に抱きしめてもらって、貴方を抱きしめることができて、貴方と幸せを分かち合って、貴方と悲しみを分かち合えることが、僕の幸せだった。
でも、マスターが居なくなってしまったらそれは脆くも崩れていく。

「あ……ああああああああああああああああああああ」

マスターがいない。
僕は、独り。
マスターのいない幸せなんてありえない。
温かさを知ってしまったら、もう冷たいところに戻れない。
優しさに浸ってしまったら、その優しさなしに生きていけない。

きっとマスターは帰ってくる。
そんなことは無いと既に僕は絶望に染まっていきつつあるのに、自分を騙す一縷の望みで暗示をかけて、僕は立ち上がった。

大丈夫
帰ってくる
マスターは、僕と一緒にいてくれるんだから
大丈夫
きっといつもみたいに、ただいまってちょっと困ったように眉を下げて帰ってくる
だから、僕は、待っていなくちゃ

マスターの好きなものをたくさん作って、お風呂の掃除をしてお湯を張って、それでもマスターは帰って来ない。
キッチンもマスターのお部屋も、いつもより念入りにお掃除したのにそれだけの時間がたってもマスターは帰って来ない。
歌って待っていようと思った。小さく、思いついた歌を口ずさんでみる。一曲終わってしまった。次は、マスターに初めて教えてもらった曲。少し悲しい歌。僕にはまだこの歌の意味はちゃんと分かってないけれど、作り物の心を精一杯込めて歌う。それでもマスターは帰って来ない。
一曲……また一曲……歌っているのに自分の声が聞こえなくなった。おかしいな。それでも僕は歌い続ける。明るい歌も、悲しい歌も、マスターに教えてもらった曲すべて。繰り返し、繰り返し、音を発さなくなった口をパクパクと動かして。
枯れていた涙が再び頬を伝っても、それがまた枯れてしまっても。
繰り返し、繰り返し。この歌は何度目だろうか……体はひどく重いのに、意識が途切れることは無くて……ただただ、繰り返し紡がれない歌を紡ぎ続ける。



永遠に














「カイト!!!!」
「!!!!?」

マスターが必死な顔で僕を呼んでいた。
大丈夫か?とかどうしたんだ!とかいろいろ言っているけれど僕の処理能力が追いつかない。寝起きだからだろう。
……寝起き?寝ていた?じゃあ、あれ?あれは……夢?

「ま、すた?」

声を出してみて驚いた。澄んでいて綺麗だとマスターが言ってくれた僕の声はとてもそんなことは言えないくらいに掠れていた。

「ずいぶん魘されていたみたいだけど大丈夫か?怖い夢でも見たのか?」

マスターはそう言って頭を撫でてくれた。
夢。
怖い、夢だった。
毎朝起きたときに飲むためにと用意してあったミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくれたマスターに、僕はゆっくりと起き上がる。寝ていたのにひどく疲れているのか体は重かった。
一口二口、水を流し込んでマスター、と呼んだ。

「落ち着いたか?」
「はい。心配かけてごめんなさい」
「いや……やっぱり怖い夢でも見たのか?」
「…………」

そう聞かれて思い出そうとするが、怖かったという事実だけで、実際どんなものだったのかはよく思い出せなかった。

「よく、わかりません。ただ、すごく怖くて……歌を……お部屋が……ぁ……ま、すたー……」
「……どうした?」
「ますたー、が……いなくなって……おいかけられなくて……それで……それでっ……」

さらに遅い来る恐怖に僕は自分を守るように身をちぢこませた。それを、マスターが優しく抱きしめてくれる。
温かかった。
この温かさが、離れて行ったのがとてもこわかった。

「大丈夫だ、カイト。俺はここにいる」
「……っ!はぃっ」

ぼろぼろと泣き出してしまった俺の背を、ぽんぽんとあやしながら、マスターは僕のめちゃくちゃな話を聞いてくれた。こわくてこわくて仕方がなくて、順序もバラバラで何一つまとまっていないのに。それでも、うん、うん、と静かに聞いてくれた。

ようやっと泣きやんだ頃にはマスターのパジャマは僕の涙で濡れてしまって、原因である僕の両目は赤く腫れていた。
ちょっとバツが悪くなった僕がふと時計に目をやると、示された時刻は3時。こんな中途半端な時間にマスターを起こしてしまったことに申し訳なくなる。

「マスター、ごめんなさい……こんな時間に」
「ん?いいよ。俺こそ、こんな時間まで起こしてやれなくてごめんな」
「そんな……マスターが謝る必要ないですっ……僕が」
「いいから。カイトが怖い思いしてるのに、俺はぐーすか寝てるなんて嫌だ」

さーて、とりあえず上だけでも着替えるか。
そういってマスターはタンスから適当にTシャツを取ってくると、ぱぱっと着替えてしまってそのまま寝転がった。

「ん」

両腕を広げるマスターに、一瞬何のことかわからなくて首をかしげる。

「こうしたら、もう怖くないだろ?」

意味を察した僕は、少し恥ずかしくて、でもマスターの腕に飛び込んだ。ぎゅうっと、抱きしめられる。

「眠れそうか?」
「……はい、大丈夫です」
「お前は頑張りすぎるからその大丈夫はあてにならないな」
「大丈夫ですよ、だって」









   目が覚めたら、貴方はそこにいてくれるでしょう?









END

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