「結界師」拍手お礼

□野分
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 ぷくりと膨れた頬。

 むぅっと尖らされた唇。

 上目使いに俺を睨み付けながら、ぎゅっと両手を握り込んでいる。

 その手をそっと取り上げる。

 柔らかな、まるで子どものようにふっくらとした可愛い手。

 にこりと笑う。

 兄さんの眉間に、深いしわが刻まれていく…。



 「…怒ってる?」

 小首をかしげる。

 「俺謝るから、兄さん許して?」

 軽く唇に口づける。

 「ごめんね?」

 握った手を、兄さんがぶんぶんと振りほどく。

 「ばかっ」

 ふい。

 顔をそらして、ずんずんと俺とは反対側に歩いていく。



 くすくすと笑いながら立ち去る後ろ姿を見送る。

 キスまでなら兄さんは抵抗しない。

 それこそ、俺が子どもの頃から繰り返している行為に過ぎないと思い込んでいるからだ。

 七郎はキスをしたがる、ということを一度覚えさせれば、それは以降兄さんのルーティンになる。





 依頼があった。

 梅雨なのに雨が降らない。これでは畑が駄目になってしまう。

 だから、その依頼通りに天候を操り雨を降らせた。

 畑に雨を。

 普段の仕事より、よっぽど世のためになる仕事。



 そうしたら、その次に舞い込んできだのは。

 猛威を振るっている超大型の台風を、俺になんとかしてほしいという依頼。

 日本に上陸するなり、多大な被害をもたらしているその台風。

 濁流のように襲い来る雨。

 あちこちであふれる河川。決壊する堤防。河川の氾濫。

 土砂災害。崩れた山が家々を、そして人々を飲み込んでいく。

 新聞で見ただけでも、死者はすでに100人を超えている。

 その台風が、こちら側へと進路を向けている。

 超大型。

 襲い掛かられたら被害は甚大。





 兄さんは俺が人を殺す依頼にも眉をひそめるくせに、こうして天候を操る仕事にも眉をひそめる。

 …神だとか悪魔だとか、そんな風に俺が呼ばれるのを嫌う優しい人。

 しかも今回は広範囲。

 先の依頼の時には、ついでのように嵐座木神社がある辺りにも雨を降らせておいた。

 この辺りは俺のテリトリー。嵐座木神社の庇護の中。



 そして。

 近づいているという巨大な台風。

 一人でそれに立ち向かった。

 荒れ狂う暴風。滝のように降り注ぐ雨。

 風を操り、術を駆使して分断していく。

 ひゅんひゅんと力を奮うたび、自然の驚異が弱められていく。

 そしていつしか。超大型と呼ばれていた台風も、俺の操る術で消えてしまった。

 温帯低気圧。穏やかなそれに、名称を変えて。



 ただ依頼があったからというだけではない。

 超大型台風。

 そんなものがこの辺りを席巻したら、その被害はいかばかりか。

 嵐座木神社。この土地。俺の生まれ育ったこの。

 綺麗な湖がある。そこから川が流れている。

 山がある。初夏の緑が目にも鮮やかな綺麗な大地。

 嵐座木神社の氏子たち。

 俺も知っている近所の人達。

 その人たちの心配まで綺麗に消し飛ばして、俺は実に満足したのだ。



 …そして、俺の仕事が終わった頃から。

 嵐座木神社の賽銭箱が、すごいことになっているという報告が使用人からもたらされた。

 元々この辺りは災害が少ない。

 他ならぬ、嵐座木神社という神佑地があるからだ。

 そのことを、長く住んでいる住民たちはなんとなく理解している。

 神を違えたことまでは知らない筈だから、きっと今回のこの現象も妖しい何かなのだろうと、そう思ってでもいるらしい。

 超大型台風はすでに各地で多大な被害をもたらしていた。

 風が強い。電柱すらなぎ倒すほどに強い。

 雨が激しい。道路が荒れ狂う川のようだ。

 各地で土砂災害を巻き起こしたその脅威。



 それが突然消えた。穏やかな雨をちらちらと降らせるだけの温帯低気圧。

 この辺りに猛威を奮う直前で、不意にふっと。

 天気予報も全国ニュースも。その話題で持ちきり。

 古くから住んでいる人間が、感謝なのか畏怖なのかわからない賽銭を投じるのに充分なほど。

 …それだけ不自然なほどに、突然に消えた台風。





 「…やりすぎなんだよ、お前は」

 苦々しそうな顔で兄さんが腕を組む。

 「思い切りばれてるじゃねぇか、馬鹿」

 頬を紅潮させて、声を荒らげて。

 「心配してくれてるの?」

 俺がまた。

 …化け物のような目で見られたりするから…?

 …畏怖の瞳の中に、恐怖の色が混じるから…?



 言葉に出来ない俺の想いを、それでも兄さんはくみ取っていく。

 思わずその躰を腕の中にくるみ込む。

 そうすると俺の胸のあたりに顔が来る。兄さんが小さくて、こんなに可愛い。

 さらさらの髪の毛を撫でていく。



 「馬鹿。派手にしすぎだって言ってるんだよ」

 ぺしんとはたかれ、兄さんが俺の胸から抜け出していく。

 「うん。ごめんね?次から気をつける」

 顔の前で両手をあわせる。

 「そればっかじゃないかお前」



 そして。

 ばか、と可愛らしく唇を尖らせて、ふいっと姿を消してしまう。





 俺がどれだけ化け物扱いされようと、どれほど恐れられようと。

 兄さんだけは、俺のことを弟としてくるみこむ。

 危なっかしい。何をしでかすか分からない。

 そう思ってはいても、結局それらを全て受け入れる。



 ―…ばか。

 そう言ってため息をついて。

 俺が馬鹿な事をするのを見逃してくれる。

 時には手助けさえしてくれる。

 神を殺す。

 その大罪。

 本来なら、俺の命だけでは到底贖えないほどの重罪。

 親父は勿論、兄さんの命までをも危険に晒すその行為。

 それを。

 ―…珍しく、馬鹿やってみたいらしいから…。

 そんな軽い一言で見逃して、手助けまでしてくれて。

 そのときのことを思い出すだけで、くすりと笑みが浮かぶ。



 …俺のことをあんな心配そうな瞳で見つめるのも、あれだけ何でも言ってくれるのも、もう兄さんだけ…。



 兄さんがああやって、俺が馬鹿をするたびに唇を尖らせてくれるから。

 その可愛らしい様子が見たくて、俺はなんだってやらかしてしまうのかもしれない。



 怒られたい。

 叱られたい。

 …もっと俺に構って欲しい。



 あぶなかしいから目が離せない。

 そんな風に俺を見つめる兄さんを見るのが好きだ。

 すごく安心すると言っていい。

 兄さんさえ、俺のことを一人の人間として認めてくれれば。

 俺は神にも悪鬼羅刹にもならなくてすむ。



 神でも悪魔でも死神でも、呼びたければ好きに呼べばいい。

 怯えと恐怖と畏怖と。

 そんな目で俺を見たければいくらでもお好きに。



 …兄さんだけは、俺の事を七郎と呼ぶ。

 弟を見る瞳で俺を見る。



 上の兄たちが皮肉交じりに、俺の事を後継者殿と呼んで、呪い殺すような眼で見ていた時も。

 …六郎兄さんだけは、俺の事をいつだって七郎、とそう呼んでいた…。

 苦しそうな顔で。…それでも俺から瞳をそらさずに、ずっと見つめていてくれた…。



 それだけで俺は。

 世界がどれだけ俺を苛んだとしても、過剰な力で縛り付けてみせようとも。

 穏やかな心持ちで生きていくことが出来るのだ。

 もしかしたら俺は、六郎兄さんに馬鹿って言ってもらいたくてあれこれ羽目を外してしまうのかもしれない。

 くしゃりと微笑む。

 あの人だって結構いろいろやらかしている。

 そのたびに俺だって随分冷や冷やさせられているのだ。

 だからお互い様。だって俺たちは兄弟なのだし。



 あとで、兄さんの好きそうなお茶と菓子を持って兄さんの部屋へ突撃しよう。

 ―…ごめんね兄さん…。

 そう言いながら、あの可愛い膝の上で甘えよう。

 きっとまた舌打ちをしながら、それでも兄さんは俺を受け入れてしまうに違いない。

 くすくすと笑う。


 
 ―…兄さん…六郎兄さん…。

 俺の正気を保つ魔法の呪文のように。

 俺を幸福にしてくれる奇跡の言葉を、心の中で唱え続ける…。





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