鬼滅の刃

□記憶の無い善逸と覚えている長男
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入学式の日。
ずっと探し求めていたあの金色が視界の端にうつる。

その場を駆け出す。
甘い匂いに胸が高鳴る。

「…善逸っ…!」

振り向きざま驚いたように見開かれる琥珀の瞳。
その手を握る。
甘い甘い匂い。
今生で初めて嗅ぐ馥郁とした香り。

涙がにじむ。
ようやく見つけた。
もう二度と離さない。

懐かしい顔。
ずっとずっとこの瞳を見つめたいと思っていた。
甘い匂い。
さらさらの髪。指を絡ませるのが俺は大好きだった。
ふくふくとした頬も変わらない。



俺を見つめるその、きょとんとした瞳。
大きな目をいっぱいに開いて、ほぼ視線の変わらない俺を見つめている。
その首がかすかに傾げられる。

…覚えて…いない…?

その可能性は全く考えていなかった。
出会いさえすれば、見つけることさえ出来れば、以前と同じようにまた恋が始まるのだと思っていた。


何と言ったら良いのだろう。
善逸の手を握ったまま固まる俺に、小さくて形の良い唇が動く。


「…誰…?」

「…炭治郎だ。竈門炭治郎!善逸には炭治郎と呼んで欲しい!」

「炭治郎?」

ふわりとした笑みが俺を見つめる。


その瞬間分かった。
…聞こえている。
…俺の音が。

「炭治郎からは、泣きたくなるような優しい音がする」

善逸がよくそう言っていた。
幸いなことに、今生の俺にも同じ音が出ているらしい。
俺は善逸ほど耳が良くないから、自分が今どんな音を出しているのか分からない。
それでも善逸の耳に心地良い音が出せているのならそれで良かった。

善逸には俺が嗅いでいる甘い匂いは分からない。
俺には善逸が聞いている優しい音が分からない。

互いに互いのそれを感じながら、抱き合って眠るあの時間は、何よりも大切な至福の時間だったのだ。

だからきっと、記憶が無くても、今の善逸にも俺の音が分かる。


なら、これからまた。
もう一度善逸と恋をしていければ。

握っていた手に力を込める。

その刹那、善逸が俺の手を振りほどくようにその場を駆け出す。


「…カナヲ…!!」
俺を振り返ることさえないまま、善逸が嬉しそうに視線の先の相手を見つめる。

「…カナヲ…良かった…」
「善逸…」

2人とも泣いている。

そうしてそのまま、衆人環視の中、2人で固く抱き合う。
良かった良かったと泣きじゃくる善逸の背中を、涙を零しながら微笑んでいるカナヲが優しく撫でている。

…どうして。
…何故。

固まったまま動けない。


「なんだなんだ子分共!べそべそ泣いてんじゃねぇ!辛気くさいだろうが!」
笑いながらその場に乱入してくる力強い匂い。

「…伊之助!」
「親分と呼べ!入学式早々泣きすぎだ」
そう言って、ばんっと善逸とカナヲの背中を叩いている。

「もう、痛いよぉ…」
泣き笑いの顔で、カナヲを解放した善逸が伊之助と固く抱き合う。
その2人の背中を抱くように、カナヲが身を寄せる。

…俺の目の前で。

泣きながら笑う善逸が伊之助を抱きしめたままカナヲをも引き寄せる。
3人で抱き合って固まって、誰も俺の方を振り返らない。

どうして。
何故。
俺のことだけ覚えていないのか。


どくんと心臓が跳ねる。

まさか。
そんな。



「…炭治郎くん…?」

柔らかい囁きを聞いて振り返る。

「…しのぶさん…?」
それと隣は…。
しのぶさんによく似た、とても柔らかい匂いの人。
しのぶさんと良く似ているその人のことを記憶で探るが、覚えはない。

…しのぶさんと良く似た匂いの人。
…血縁者。

…最愛の姉…。


しのぶさんの言葉を思い出す。

「…初めまして。竈門炭治郎です」
ぺこりと頭を下げる。
「あら。あなたが炭治郎くんなのね?初めまして。胡蝶カナエです。…あらあら…」
善逸達の方をみやり、苦笑している。
そのままカナヲ達の方へと歩み出していく。

その場に残る懐かしい人に声を掛ける。
「しのぶさんは…、覚えているんですよね…?」
「えぇ、覚えてます」
「…カナヲも…?」
「覚えています」
「…善逸と、伊之助は…」
「どうでしょうか。あなた達に会うのは今日が初めてなので」
しのぶさんが小首を傾げる。

「…カナヲを見つけたのは児童養護施設です。両親に頼んで、妹として引き取りました。…同じ施設に、善逸くんと伊之助くんがいた、とは聞いていましたが」
声を潜めてしのぶさんが囁く。

「ならば共に、とも思ったのですが。私達がカナヲを見つけたときにはすでに、伊之助くんは親戚の者だという人に引き取られていたと聞きました。…善逸くんはそれより前にいなくなっていて、探すことが出来ませんでした」
それはそうだ。
守秘義務。人権。
あの頃のように柱ではない未成年が調べようとしても、出来ることには限りがある。


「…善逸。伊之助。…カナエ姉さん。しのぶ姉さん。炭治郎」

ようやく泣き止んだらしいカナヲが、善逸と伊之助に俺達を紹介する。

振り返った伊之助の目が丸くなる。

「炭治郎!それにしのぶじゃねぇか!」
嬉しそうに伊之助が俺達に飛びついてくる。
「伊之助、痛い痛い、頭突きは駄目だ」
「うるせぇ!このデコ八郎が!」
「元気そうで何よりです」
「しのぶ!しのぶしのぶしのぶっ!!」
半泣きの伊之助がしのぶさんを抱きしめる。
「本当に…しのぶなんだな…」
しがみついて泣きじゃくる伊之助を、善逸が引き剥がす。

「いきなり何やってんの?!お前何やってんの?!何なのまさかこの美人がお前の彼女とか言わねぇだろうなアァァァ?!この顔だけで飯食っていけそうな美人が彼女とか言わねぇよなあァァァ?!何なんだよお前?!許さねぇぞお前えぇぇぇぇ!!粛清だ!即!粛清!!」
「お前今竹刀も木刀も持ってねぇだろ。落ち着け」
「これが落ち着いていられるかァァァ!!」

「…善逸くん…?」
「はいっ!何でしょう綺麗なお姉さん!!」
「初めまして。胡蝶カナエです。…カナヲとしのぶの姉です」
「…カナヲの…?!…あ…、ありがとうございますっ!!」
がばぁっと頭を下げる。
「カナヲが幸せそうで…、すごく幸せそうで…。本当に、ありがとうございます…」
ぼろぼろと大粒の涙を零しながら泣きじゃくる善逸の頭を、カナエさんが優しく撫でる。

「しのぶは伊之助くんの彼女ではありませんよ。もう決まった方がいるので」
「姉さんっ!」
怒ったように叫ぶしのぶさんを見て、善逸がカナエさんを見つめる。
「…と言う事は…、カナエさんは…?」
「私にも決まった方がいます」
「なんだよぉぉ!せっかく綺麗なお姉さんとお知り合いになれたのに!!」
「カナヲのことを心配してくれていたのね?大丈夫。カナヲはもう大丈夫よ。…あなたは?」
「あ、えっと…、俺も…大丈夫です」
はにかみながら笑う善逸の肩を伊之助が抱く。

「こいつは心配いらねぇだろ。剣道道場に引き取られてたもんな」
「道場?…もしかして、育手は、桑島慈悟郎さん?」
「じいちゃんのこと、知ってるんですか?!」
「えぇ。とても。…そう…桑島さんのところにいるのね…。私達もご挨拶に行かなくては。善逸くんも、いつでもカナヲに会いに、うちに遊びに来てくださいね」
「良いんですか?!」
「もちろん。いつだって歓迎します」
ふわりと笑うカナエさんに、善逸が耳まで赤くする。

「…良かったぁ…。俺、入学したのはいいけど知らない人ばかりで。…カナヲも俺も、ちょっと人見知りだから。カナヲと伊之助が一緒で心強いです」
「大丈夫ですよ。すぐに慣れます。…むしろ、知っている人達ばかりかと思っていました」
「はい?」
「なんでもありませんよ」
しのぶさんがにこりと笑うと、ふぁわわわ、なんて言いながらまた耳まで赤くしている。

「善逸!ほら、炭治郎だ。好きなだけ抱きついておけ」
伊之助がぐいっと俺の肩を押す。

「あ?ふざけんなよ。なんで俺が男に抱きつくんだよ。さっきお前がこの美人に抱きついてたこと忘れてねぇからな」
善逸の文句には構うことなく、伊之助が真顔の善逸の前に俺を押し出す。
「お前、こいつの『音』、好きなんだろ。胸元に抱きついて好きなだけ聞いてたらいいじゃねぇか」
「なっ…?!お前!そんなこと気軽に言うもんじゃないよ!男に抱きつかれたりしたらこの人も迷惑だろうが!」
「迷惑じゃねぇよ。なぁ権八郎?」
ちらりと視線を送られ、伊之助は完全に覚えていることと、善逸が何も覚えていないことを理解した。

「俺は大歓迎だ!むしろ嬉しい!さぁ!」
両手を広げる。
「えぇ…、いや、この距離で充分だわ…。お前も伊之助にそこまで付き合わんでも良いぞ…」
「俺が充分じゃない!なので失礼する!!」
がばりと善逸を抱きしめる。
ずっとずっと探し続けて来たのだ。
会えたらすぐにまた前のような関係になると思っていたのに、まさか記憶がないとは思わなかった。
久しぶりの甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んでいく。
腕の中で小さく「…はわわわわ…」と戸惑ってはいるが、嫌がっている匂いはしない。
なので俺も遠慮なくがしがしと抱きしめる。

「…満更でもないんじゃねぇか」
伊之助がぼそりと呟いた。


改めて周りを見ると、確かに知っている人達の顔が見える。
遠巻きに俺達を見つめている顔にも、縁のある人達が溢れている。

道理で。
入学式当日にこんな大騒ぎをしていても、誰からも注意されたりしないわけだ。
俺達以外にも、あちらこちらで久しぶりの邂逅を喜んでいる人達がいるのだから。

「…再会は落ち着いたか。相変わらずお前らは派手にうるさいな」
声を掛けられて、善逸がかすかに警戒の匂いをさせる。
「ん?どうしたお前?」
善逸の肩を掴もうとする宇髄さんの手を、カナヲが押し止める。

「…ぜ…善逸は…、人見知り…、するから…」
カナヲがそれとなく『善逸には記憶がない』と言うことを伝える。

…あとで伊之助から話を聞こう。
俺より随分詳しいらしいし、俺が知らない善逸の話も聞きたい。

「…そ…そろそろ…、離せって…」
「あぁ…、すまない」
ずっと抱きしめたままだった善逸を解放する。
耳まで赤くしたまま、それでも名残惜しそうに俺の袖を摘む。
「お前さ…」
「炭治郎だ。善逸」
「…炭治郎…。なんか…すごいな…。落ち着いた。ありがとう」
蕩けそうな笑みを向けられて、思わず引き寄せ口付けしそうになる手を伊之助が押し止める。
「…デコ八郎…、お前の方が落ち着け」
危なかった。
伊之助に止められなかったら、俺は確実に今この場所で善逸の唇を貪っていた。

…俺は長男。
…俺は長男。

頭の中でよく効くまじないを唱えておく。



「…記憶がないのがこいつの方で良かったじゃねぇか。お前が覚えてなくてこいつだけが覚えていた場合、こいつはお前を探すだろうが、幸せに暮らしているのを確認したら名乗らずにそのまま姿を消していたと思うぞ…」

耳元で囁かれてぞわりとする。
ありそうだ。
本当にありそうだから怖い。

記憶のない俺と、記憶のある善逸。
記憶があろうとなかろうと、俺は必ず善逸のことを好きになる。
それは確信している。

…だが、そもそも出会うことさえ出来なければ。
…避けられてしまうようなことになれば。

背筋がぞっとする。

「…前の時でもお前は捕まえるのに苦労してただろうが。俺達が協力してひっ捕まえてそれでようやくだっただろ。…今回もあいつ、足は早いぞ。小学生の頃から、大人相手でもぶっちぎってた」
「…逃さない。ようやく見つけたんだ。…逃さないし、誰にも渡さない」
「…相変わらずだなお前…」
伊之助が呆れたように息をつく。

前のことを思い出す。
好きだと告白して、俺と添い遂げてくれと頼み込んで、そこから自慢の足と耳を使いこなし俺から逃げ回る善逸を無理矢理捕まえた。

匂いで両想いなのは確信していたから、押して押して押しまくり、結局最後はどうにか押し倒して手に入れたのだ。

そういう関係になってからも、炭治郎は幸せになれよとか告白してきた女の子と付き合ったら良いのにとか、散々俺の心を掻き乱してくれていた。
もちろんその後は毎回、俺がどれだけ善逸のことを愛しているか、他の人ではこうした対象にはならないのだということを、閨で思う存分体と心に刻み込んできたわけではあるが。

…俺の幸せが善逸と共にあるということを、結局理解してくれていたのか、それとも出来ないままだったのか。
…まぁ、理解出来るまでひたすら体に刻み込ませて貰うだけだ。

むんっと頷く。



「…ここの学園長はお館様です。顔見知りもたくさんいるでしょうが、覚えている人と覚えていない人がいます。なので、顔見知りを見かけても、確認できるまで昔の話はしないようにしてくださいね。…思い出したくない人も、多いでしょうから」

しのぶさんがこっそりと耳打ちする。

「わかりました」
伊之助と二人で首肯する。

入学式のあと、教室へ移動する。
「同じ組で良かったよ伊之助。頼むから俺を守ってくれよぉ…」
人の波に気圧され、善逸が伊之助の袖を握り込む。
「…お前の担当は今日からこいつな。こいつに守って貰え」
伊之助が俺のことを指で示す。

「…ちょ、初対面の人にさァァァ?!」
「俺は問題ない。むしろいくらでも頼って欲しいし、仲良くしたい!」
「…えっ…そう…?」
「こいつの音なら安心出来るんだろ。知らない奴らの音はお前慣れるのに時間掛かるんだから、しばらくこいつにくっついておけ」
「いや…、ないわ。可愛い女の子ならともかくさぁ…」
「聞こえすぎてまた倒れるとかしても俺は知らねぇからな」
「待ってよ伊之助!」
さっさと先に進む伊之助の背中と、隣に立つ俺とを交互に見ている。

…まだ少し警戒されているのかもしれない。

「大丈夫だ。俺がいるから」
にこりと笑う。
善逸が好きだと言ってくれた笑み。

「…おまっ…。…そういうのは、女の子相手にしなさいよっ…」
そう言いながらも善逸の手が彷徨う。
さすがに初対面だと認識している相手の袖は摘みにくいらしい。
その手を捕まえぎゅっと握る。
「…っ…!」
驚いたような顔はしているけれども、握った手は振りほどかない。

前のとき善逸は、「最初に炭治郎の音を聞いて、おにぎり貰った時からずっと好きだった」と言ってくれていた。

…おにぎり。
明日はおにぎりを持ってこなければ。

甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んでおく。
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