鬼滅の刃

□恋着炭治郎と親分の苦悩
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「伊之助、ここで会えて良かった」

穏やかな琥珀の瞳が俺を見つめる。
蝶屋敷の庭に差す日差しのような甘い色。

顔だけは笑顔を取り繕っているが、俺の感覚には響いてくる。
今のこいつはまともじゃない。

「俺、ちょっと遠方の任務に行くことになってさ。…多分、当分会えなくなるんだ。じゃあ、元気で」
軽くあげられた腕を掴む。

「…何があった」
問うと怯むように顔を逸らせる。
今までのこいつならば、怯えて泣いて喚いて騒いで、尋常じゃなく賑やかだ。
それがない。
凪のように静かな中に、それでも深い絶望と葛藤と悔恨が覗いている。

「…俺、もう、竈門、君とは…会わないことにしたんだ…」

張り付いた笑顔のまま、震える声がそう紡ぐ。

「来い」
その手を掴み引き摺る。
「…待って、俺、もう行かないと」
「いいから来いって言ってるんだ」

俺達が寝泊まりしている離れの部屋。
…いや、そこだと匂いが残っちまう。
…安全なのは客間の方か。


僅かな思案。
戸惑っている力弱い手を引いて、誰にも会わない道を通って。

辺りに人気が無いことを確認して、部屋の中へと滑り込む。


「…何があった」
びくんと震える肩が小さく見える。

…あんなに鍛えているはずなのに。
…あれだけ力強い刃を振るえる奴なのに。

それなのに今は、あまりにも小さく華奢な、弱い生き物であるかのように見えてしまう。

「何があった。言え」

「…竈門、君に…、好きだって…、言われた…」
「色欲絡みの言葉でか」
「…」

返事がないと言うことはやはりそうなのだろう。
俺の目から見ても、近頃の炭治郎が見せる執着は酷かった。
最初のうちは無自覚だったようだが、自覚してからはどんどん酷くなっていった。

とにかく独占したがる。
全てを把握しておきたがる。
怪我の治療も、療養中の世話も、全部自分でやりたがった。
当然アオイ達との衝突も増える。
甘やかすわけではなかったが、とにかく他人の匂いが付くことを激しく忌み嫌うようになっていった。
他の奴らにこいつを触らせたくはないのだという欲求を、隠すこともしなくなった。

善逸自身が他の女や男と笑っていると、わかりやすく嫉妬の気配を醸していた。
誰かに触れたり触れられたりしていると、肌が痺れるような感覚になるほど空気を震わせていた。



そんな中でも、善逸は良く努力していた。

…俺は女の子が大好きだから。
…男なんざお呼びじゃない。
…男前は滅べ。

炭治郎から想いを告げられないよう、頑張っていたと思っていた。

だがそれも時間の問題。
善逸があしらえばあしらうほど炭治郎の執着が増した。
赫灼の瞳が恋情を色濃く深くしていった。

それでも善逸が耳と足を使って逃げている間はまだ良かった。
想いを告げる暇もないほど、こいつはうまく逃げていた。
だが、それも叶わなくなってきたのだ。


炭治郎自身が、想いを隠すことをしなくなってしまったからだ。
「すまない。俺が好きなのは善逸だけなんだ」
告白される度、爽やかな笑顔でそう答えた。
当然隊内でも噂になる。

そうすれば炭治郎の人徳で、こいつの居場所などすぐに割れるようになってしまった。
炭治郎が来るまで善逸を引き留めておこうと、親切心で差し出す奴らまで出てくる始末。

だが、そんな風に微笑ましい恋愛だと思って応援していた奴らも、炭治郎が見せる執着の度合いが深くなるにつれ、次第に落ち着きを無くしていった。

…激しすぎる。
…執着の度合いが。
…あれでは2人とも壊れてしまう。

炭治郎に協力してきた奴らが自らの行いを悔いるようになってきた。



善逸が誰かに何か声を掛けたわけでもなく、ただ街中を歩いてきただけで眉間に深い皺を寄せていた。
変な匂いが付いた。
湯浴みした方が良い。
俺も汗をかいたから一緒に行こう。
そうしてその後は決まって、自分の腕の中に善逸をくるみ込み、自分の匂いをつけて上書きしていた。

「あんなに愛されて大変だな」
「もういっそ応えてやれよ」
「色男に愛されてるって評判だぞ」

軽口を叩いていた奴らも、炭治郎の恋着が増す度に何も言えなくなっていた。




あまりにも炭治郎からの執着が酷すぎて、善逸は次第に単独任務しかこなせなくなっていった。

同じ任務をこなす奴らに、炭治郎が嫉妬するから。
まるでそれが正論であるかのように、善逸の足を引っ張ったと叱責するから。
実際に善逸は強いから、あながちその指摘も間違ってはいなかった。
善逸が怪我を負うときは大抵、合同任務をこなしていた他の隊士が原因のことが多かった。


…本来であれば、鬼殺隊に単独任務は多くない。
1人より2人、2人より3人。
人数が多いほど任務が遂行しやすくなり、生還する確率が上がるからだ。

教えられなくてもそのくらいは分かる。

そもそも通常なら、単独で鬼を倒せる奴自体人数が限られている。

鬼を倒しても、その場で怪我をしたら。
鬼の術と、自分の型が合わなかったら。
行き帰りで体調を崩したら。
そして単独任務では、連絡手段すらままならない。

ましてや善逸の鎹雀は人語を語れない。
中には意思疎通が出来る奴らもいるようだが、数は多くない。
そもそも善逸本人が、鎹雀と意思の疎通が出来ない。
雀がどれだけ囀っても、善逸には何一つ伝わらないのだ。

あれだけ任務が嫌だ、怖い、誰か助けて。
泣きながら喚いていたのが、文句も言わず単独で任務に出掛けるようになった。
怪我もせず、泣きもせず、淡々とただひたすらに鬼の数を減らす。
だから次から次へと任務が舞い込んできた。
善逸は何一つ愚痴を吐かずにそれらをこなし続けた。

さすがにこれでは善逸1人に多大な負荷が掛かりすぎる。
そういって上の奴らに進言した者もいた。
最たる例がアオイを初めとした蝶屋敷の者達だ。

「あれでは体を壊してしまいます」
「善逸さんだけに苦労と負担が掛かりすぎています」
至極まっとうな意見だ。

だがそうすると、「では俺が善逸と行きます」と炭治郎がいっそにこやかな笑顔で言い放つ。
あの人好きのする笑顔。
人の心に染み入るような声。

それが何ら下心もないかのように滑らかな言葉を紡ぐ。

「大変だっただろう、善逸。いくらでも俺に頼ってくれて構わないんだぞ」
そう言って善逸を抱きしめようとしていた。


そもそもどうして善逸がこれだけ単独任務をこなしていると思うのか。
善逸の邪魔をするな。
善逸に触れるな。
善逸のそばに寄るな。
同じ部屋で寝泊まりして、同じ風呂に入っていいのは自分だけ。
そういう執着心が隊内に浸透した結果、誰も善逸とは組まなくなっていったからだ。

面倒くさい。
怖い。
同じ任務につきたくはない。
こうした噂は流布するのも早い。

善逸の功績が顕著になる度、今度は別の理由で。
善逸の足手まといになるから。
1人であれだけこなせるなら自分はいらない。
本当にそう思っている奴らもいたし、妬心や僻みからそう言っている奴らもいた。


善逸が強いのは本当だったし、それを炭治郎が信じていることも本当だった。

だから炭治郎は善逸が単独任務に出掛けていても平気だったし、ただ会えないことだけを寂しがった。



そう言った理由で、最初の頃は俺と善逸が合同任務に行くことが多かった。
炭治郎も俺に対しては警戒心を向けて来なかったからだ。

だが炭治郎の執着が激しくなるにつれて、善逸の方から単独任務を希望するようになっていった。

藤の家紋の家ですら、老人しかいない家だけを利用するようになっていった。

…匂いが付くから。
…炭治郎が荒れるから。


炭治郎の欲求はわかりやすかった。
善逸の全てを独り占めしたい。
善逸の全てを自分で染めたい。

匂いも、音も。
その体も心も、そのすべてを自分だけのものにしたいと願っていた。

だから他の奴らには触れて欲しくない。
匂いをつけられたくない。
琥珀の瞳に映るのも、すべてすべて自分だけに留めておきたい。


善逸が炭治郎の音を「泣きたくなるほど優しい音」だと言って、身を寄せていたのもまた悪かった。
炭治郎の音がいっとう好き。
聞いているとよく眠れる。
助けて炭治郎。俺を守って。
その代わり炭治郎の大事なものは、俺が守るよ。
そう言って笑っていた頃にはもうきっと、炭治郎の執着は始まってしまっていた。





風呂も、部屋も、寝るときですら。
離したくはない。
誰にも見せたくはない。
他の誰にも、この『匂い』を共有させたくない。


徐々に善逸の世界が狭まっていくのを感じていた。
あれだけ好きだった甘味ですら口にする頻度は減っていった。

そもそも炭治郎ほど鼻が利く隊士は他にいない。
だから何故あんなにも善逸の匂いに執着しているのかが誰にも分からない。

「善逸からは、とても強くて優しい匂いがする」
あいつは良くそう言っていた。
初めて合同任務をこなした日から、同じ事を繰り返し。
だから善逸の匂いが好きなのは本当なのだろう。

…だがきっとおそらくは、そんな「強さ」だの「優しさ」だのといった、表面上の匂いだけを感じていたわけではなかったのだろう。
炭治郎の鼻に、こいつの匂いがどう響いているのかは分からない。
言葉でさえ、こいつの『魅力』を他者に伝えようとはしなかったからだ。





何より一番の問題は、善逸の気持ちもまた炭治郎の上にあったと言うことだ。
炭治郎に匂いを嗅がれ、抱きしめられ、甘い言葉を囁かれ、それでもこいつは確かにそのことに戸惑いはしながらも喜びを感じている。
好きだと言われ、抱きたいと乞われ、全てを自分のものにしたいと言われてもそれでも、善逸には拒絶することが難しい。
求められれば求められるだけ、いくらでも差し出してしまいたいのだ。
現に今もこうして唇を噛みしめながら、炭治郎の想いに流されてしまいたいと願う自分自身の心と戦っているのだ。

…この2人が両想いだということが、何より一番たちが悪かった。
炭治郎の片想いなら、炭治郎が振られてそれで終わりだ。
散々ごねて泣いたり縋ったりしたかもしれないが、誰かが慰めてやればそれで終わりになるはずだった。
力尽くで想い人を嬲ろうとするような、そんな奴ではないからだ。


だが、両想いなら話は別だ。
互いの匂いと音で、互いの気持ちが相手にばれすぎてしまっている。

今のところは善逸が同意していないから事に至ることはないが、炭治郎が本気で迫れば恐らく善逸は拒めない。

本人もそれが分かっているから、ただひたすらに距離を取ることで避け続けていたのだ。


想い人とは想いが通じ合っている。
なのに手を出すことが出来ない。
最後の最後。そこだけがどうしても同意して貰えない。

そのことが更に炭治郎をおかしくさせていった。

自分と善逸だけで暮らす家を用意して、そこに善逸を囲い込もうとし始めた。
誰にも見せたくない。触らせたくない。匂いも、音も、善逸が感じる世界の全てに自分が存在していたい。

これでもし願い通り善逸の全てが手に入ったとしても、到底満足して終わりそうにもないほどだった。
一旦手に入れたら、きっともう二度と手放さない。
屋敷の奥深くに隠し込んで、表に出さないだろうと容易に想定できるほど。

俺の肌がビリビリ震えるくらい、そんな剣呑な気配を濃厚に漂わせていたのだ。




「…念のために言うが、あいつと添い遂げるという選択肢もあるぞ」
「…無理だよ…。俺が存在するだけで、竈門、君が壊れてしまうなんて…俺が許せないもの」
「壊れないよう、傍で支えるという選択肢は」
「…匂いで酔うって言われても、俺が自分の意思で匂いを消すことは出来ないからね」
「どこへ行くんだ」
「…遠いところ。竈門、君も…、俺も…、壊れて欲しくないからって…。お館様や柱の人達が、協力して隠してくれることになってる」
「…そうか」

お館様。柱。
そう言った奴らから見ても炭治郎の執着が限度を超えているということか。

ため息をつく。


「…なら俺も行く」
「え」
「お前と一緒に行く。目立たねぇように隠れるんなら、行き先もどうせ僻地の山とかそんな場所だろ」
「…うん…」
「だったら俺もそれでいい」
「でも、伊之助…」
「お前と俺が2人で消えりゃ、口さがない連中がいくらでも理由を考え出してくれるだろうが」
「でも、それだと伊之助が」
「お前が1人で消えてもあいつは探すぞ。…なら俺も連れて行っておけ。いざというときは守ってやる。お前は子分だからな」
「…いいの…?」
「あぁ」

頷いてみせると、静かにぽろぽろと涙を零す。
こいつが泣くところを見るのも随分と久しぶりだ。

「もう出るんだろ。…行こうぜ」
「本当に…いいの…」
「…壊したくねぇんだろ」
「うん…」
「俺は親分だからな。…子分達のどちらも壊れて欲しくねぇ」
「…伊之助…ありがと…」
「ほら、行くぞ」


手を引く。
「向こうに着いたら、しっかり食えよ。お前の型は足が大事なんだろ。そんなへなちょこ足じゃあ、逃げ切れねぇからな」
「…うん…」

隊服と、日輪刀。

必要なのはそれだけだ。

善逸の手を引きながら、人がいない道を辿り屋敷を抜け出す。

目映い日の光が、まるであいつのようで…焦燥感で胸が焦がれた。


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