鬼滅の刃

□泣かされ善逸と泣かせた長男
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その瞬間、す…と匂いが消えた。
いや、確かに生き物自体が放つ匂いは残っている。
だけれども、いつものような甘い甘い…頭の中まで柔らかく蕩けさせてしまいそうな…あの独特の匂いがしない。

消えて初めて、いままで感じていたその匂いが、『感情の匂い』だったことに気がついた。

俺の方を向いているのに俺を見てはいない琥珀の瞳。



…泣かせてしまうだろうか。

…いっそ泣いて怒って叱ってくれれば。

…そうじゃない。俺が。

…俺が謝らなければ。

…いますぐ謝って、それで。

…そんなつもりじゃなかったと。そう。


そこまで考えて気付く。
なら俺は一体どんなつもりであんな言葉を口にした?
どうして。

あんな酷い、心にもないことを?
本当に?
心にもない言葉を、あんな風に人にぶつけてしまうことが出来るかのだろうか?


僅かな逡巡。
その刹那。
稻妻の光跡を残し、目の前から善逸の姿が消えた。
俺の姿を映さない、琥珀色の瞳の残像だけを刻んで。



追いかけなければ。
そう思うのに体が固まってしまって動かない。
手も、指も、口も。
まるでにかわで固められたかのように硬直している。


きよちゃん、すみちゃんが口々に俺に対する怒りを露わにしている。


なんてことを。
早く謝りに行ってください!
なんであんな酷いことを言うんですか!


発端になったなほちゃんは泣いていた。
違う。
なほちゃんのせいじゃない。
全部全部俺のせいだ。
なのに足が動かない。
善逸の匂いを追いかけたいのに、いつもの鼻をくすぐるような甘い匂いを残さないその背中を追うことが、俺にはどうしても出来なかった。



それからもう三月。
…俺は、視界の端に善逸の姿を捉えることさえ出来てはいない。












発端は些細な出来事だった。
あまりにもありふれた日常の光景。
いつもと同じ風景。


…なのに、この時はもうそれが、どうしてもどうしても…俺は許せなかったのだ。





「いつもありがとうございます善逸さん」
「いえいえぇ、なほちゃんみたいな可愛い子の役に立てるなら幸せだよぉぉ」

縁側を通ったとき、善逸達を見掛けた。

大きな洗濯籠を抱えて歩いていたなほちゃんの手から、善逸が洗濯籠を受け取っていた。

「せっかくの休憩中なのに、休んでなくても良いんですか?」
「こんな重たくて大きな籠、女の子に持たせるわけにはいかないでしょ。ほとんど俺達野郎共の洗濯物だし。毎日訓練だの任務で怪我しただので、汚してばっかだしさぁ。いつも本当に感謝してるんだよ?だからさ、このくらいのことは俺にさせてよ」

締まりの無い顔でそう言って笑っていた。
つられたようになほちゃんが笑う。
その横では大量の洗濯物を先に干し始めていたきよちゃんとすみちゃんの姿も見える。
微笑ましいなと思いつつ、俺も手伝おうか、と庭へと降りる。
だが次の瞬間、俺の体が固まった。

「…善逸さんって優しいですよね。こないだ女性隊士の方が、善逸さんのこと素敵な人だって話していました」
「えっ!?待って待ってなほちゃんその話詳しく聞かせて!?結婚かな!?俺もいよいよ結婚かな!?」
髪の毛が揺れるほど大袈裟に叫んでいる。
「さぁそこまでは。善逸さん優しいし強いし素敵な方だって言ってましたよ」
「ちょっと詳しく教えてくれないか!これから求婚に行ってくるよ俺!」
普段になくきりりとした顔でなほちゃんを問い詰めている。
「お名前は知りません。蝶屋敷へ立ち寄られただけだったので。カナヲさんと話していたから、カナヲさんはご存じかもしれません」
「カナヲちゃん?あとで聞いておくよ!そうと決まれば早く干しちゃおう洗濯物!」
にひひとだらしない顔で洗濯物を摘まんでいる。

「いよいよ俺にも春が来たぁぁぁ」
歌い出しそうなほどに機嫌良く洗濯物を干している。
その姿を見て、何故か俺の中から苛々が産まれてくるのを感じた。

「顔も名前もどんな人かも知らないのに、求婚しに行っちゃうんですか?」
不思議そうな顔できよちゃんが首をかしげる。
それを聞いて、同じく不思議そうな顔で善逸が笑う。

「そりゃ行くでしょ。俺なんかを好きになってくれるなんて貴重な人、絶対に結婚して貰わないといけないし。そりゃ泣いても縋り付いてでも結婚して欲しいというわけで!お願いするしかないよねぇぇぇ」

「善逸さんにはちょっと年上のお姉さんだったと思います」
「願ってもないじゃない!俺、年上のお姉さん大好きだもの」
「年上のお姉さんが好きなんですか?」
すみちゃんが問いかける。
「あっ、もちろんなほちゃんのこともきよちゃんのこともすみちゃんの事も大好きよ!もしその子に振られたら、誰か俺と結婚してくれる?」
「善逸さんはもうちょっと落ち着いて女性と接した方が良いと思います」
「きよちゃん辛辣ぅ!」
「でも本当にそうですよ。善逸さんはいきなり迫りすぎるから玉砕するんだと思います」
「そうですよ。ちゃんと落ち着いて、この人一人きりだと口説いていけば、善逸さんのこと好きになる女の子は多いと思います」
「えっそうかな!?俺結婚できるかな!?」
「出来ますよ」
「出来ます」
「誰か、特別に好きな人はいないんですか?」
「俺は皆のことが大好きよ!」
「そうじゃなくて…、この人でなければ駄目だってくらいに好きになる人です」
「俺はさぁ、優しくされたり好きだって言ってくれる人がいたらすぐに好きになっちゃうの。ひひ」
「それでたくさん騙されたって聞きました」
「まぁそうなんですけれどもぉぉぉ!」
「そういう口先だけじゃなくて、相手の方の本質も見極めるの大事だと思います」
「そうねぇ、そうかもねぇ」
「心配してるんです!誰でもいいから結婚したいじゃなくて、この人と結婚したいって思う人を見つけてください」
「そうです。好きになった人だけを口説いてください」
「でもさぁ、俺が好きになった人はみーんな俺のことを好きになってはくれんのよ」
「そんなことないです!ちゃんと向き合って想いを伝えたらいいと思います」
「あんがとね。きよちゃん俺と結婚してくれる?」
「しません」
「ほら振られた!瞬間で振られたぁぁぁ!!」
「だから言ってるのに。女性の方と接するときは、もうちょっと落ち着いてくださいね」
「わかった落ち着くよぉ!俺もついになほちゃんと結婚かな!?」
「しません」
「なほちゃんにも振られたぁぁ!…もう決めた!今から俺、その年上のお姉さんのところへ求婚しに行ってくるよ!そのお姉さん、綺麗な黒髪だった?」
「長い黒髪を上の方で結んでいましたよ」
「良いじゃない良いじゃない!俺、髪の長い子好きなのよ。指を絡めたら気持ち良いんだよねぇ。年上で髪が長いなんてもうこれは、結婚するしかないじゃない!?」




善逸にとってはいつもの軽口だったに違いない。
でれでれとなほちゃん達にすり寄る姿が、この時は何故か無性に腹立たしくてたまらなかった。


「どうしていつもいつもそんなに恥をさらすんだ?!」
なほちゃんと善逸の間に割って入った。

「女性を困らせるな!名前も知らないような女相手に求婚するようなことはするな!恥ずかしくないのか!?」
羽織の襟をぐいぐいと引っ張った。

「言い方ァ!」
いつものように善逸が喚いて終わる、…はずだった。



「そりゃ炭治郎はもてるから俺の気持ちはわからんよ」
これみよがしに顔をしかめてふいっとそっぽを向く姿に、産まれたばかりの苛々が成長していくのを感じた。
「お前と違って俺はもてないからね。そんな俺のこと良いなって言ってくれる人がいるんなら、そりゃ求婚しに行くよ。俺のこと好きになってくれる人なら、俺もその人のこと好きになるんだから」
ふいっと俺から顔を背ける。
「…今度こそ俺も結婚かもなぁ。うふふ。俺のことを好きになってくれる年上のお姉さんとか最高じゃない?」
ねー?となほちゃん達に笑顔を向ける。
…俺の顔は見ない。
俺の怒りがするりと躱されているのがわかった。
何故だ。
何故俺との間に壁を作る。
俺を拒むような匂いが瞬間鼻を掠めた。
眉間に皺が寄っていく。




「…そういえばお前はさ」
急に振り返ったときにはまた気配が変わっていた。
泣いて笑って賑やかな善逸の気配。
…いつもと同じ、気安い匂い。
それをわざと醸し出しているような匂いがする。

「こないだ告白してきた子と付き合うの?」
好奇心旺盛な琥珀の瞳が、笑い含みに俺を見る。
「…しない。丁重に断った」
「なんでそんなこと勿体ないことするのさぁ!!せっかく女の子の方から告白されてるのに!こないだも恋文貰ってたの知ってるんだぜ!?滅べ!もう滅べお前!」
俺を指さしながら喚く姿に、じりじりと胸の中を焦げつかせるような苛つきを覚えた。

「なんだよぉその顔!いいよなぁ男前は!どの子でもよりどりみどりだもんなぁ!…で?どの娘と結婚するの?あのお下げの娘?リボンの似合う娘?あの、お前の羽織とお揃いの柄の帯を締めていた娘?」
「すごい。炭治郎さんもてるんですねぇ」
「俺は耳が良いからね。聞こえちゃうの」
「女性の告白を聞いちゃうのは良くないです」
「だって聞きたくなくても聞こえちゃうんだもの」
「そういうときは耳を塞ぐと良いです」
「やってるんだけどねぇ」
困ったように笑う。



「あっ、それともこないだ一緒に任務に行った娘かな?すごく楽しそうに話してたじゃないお前。…珍しいよね。お前があんなに女の子と話が弾むってさ。…これはついに炭治郎も結婚かな?」
うふふと口に手を当てて笑っている。

「お嫁さんのお友達、俺に紹介してくれるよな?紹介してくれるよなぁ!?」
ねだるように俺の羽織を摘まみ掛けた手を振り払う。
思っていたより強い力となっていたそれが、ぱぁん、という乾いた音を耳に響かせる。

「…善逸には関係ないことだ」
自分でも驚くくらい冷たい声が出た。
「そんな話をするな。土足で踏み込んでくるような真似をするものじゃない」
ぎりぎりと歯を噛みしめる。
「俺が誰とつきあい、誰と結婚するかなんて、善逸には全く関係ないことだ。二度と口にするな」
目の前でへらへらと笑う善逸の姿を見ているだけで胸がむかむかする。
「善逸にだけは、俺を暴くようなことをされたくはない」
焦りと苦痛。
口から付いて出る言葉が善逸を傷つけていることは分かるのに止めることか出来ない。


「やめろ」
善逸を睨む。

「善逸には関係ない。二度とするな」
自らの口から零れ落ちる声の冷たさに、冷え切った昏い雪道を思い出す。

…俺が言いたかったことは、本当にこれだっただろうか。


すん、と空気が変わるのが分かった。


虚ろな瞳。
空虚な気配。
琥珀の瞳には何も映っていないかのよう。
何も言わずに俯く姿を見て、それでも止まらなかった。

「…二度と…!…二度と言うな…!!」
吐き捨てるように叫んだ。

「善逸を見ていると苛々がとまらない!頼むからもうこれ以上、俺のことを苛つかせないでくれ…!!」
俺の口から悲鳴のような声が迸った。
俺を見ていない虚ろな瞳が怖くて、善逸の目すら見なかった。

なほちゃん達からは怯えた匂いが色濃くたゆたっていた。

「…」
ぎりりと唇を噛みしめる。
口腔内に広がるどんよりとした鉄の味が、俺の中の何かをひどく責め立てて来るかのようだった。



…その瞬間、善逸からは匂いが消えた。

刹那の閃光の後。
善逸はその場から姿を消した。
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