鬼滅の刃

□こうして俺達は交際0日かつ互いの名前も知らない状況で婚約した
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暗い部屋の中で息を飲み込む。

冷え冷えとした部屋。
物の少ない、寒々とした部屋。
先程まではすっきりとした感じの良い部屋だと思っていた空間が、突如空虚な空間へと変貌する。

ゆるりと手のひらを腹に当てる。
そこに確かに聞こえる温かな音。
腰まで伸ばし2つに結わえた金色の髪が、まとわりつくように腹の辺りに絡んでいる。

生きてる。

頭の先から血の気が引いていく。
簡素なテーブルの上に置いてある妊娠証明書。

何故だ。
どうしてこんなことになっているんだ。

先刻までは確かに、俺はほわほわと夢見心地で幸せだった。
赤ちゃんが出来たなんて告げたら、あいつはどんな顔をするんだろうなんて想像しては浮かれていた。
それが一瞬で切り裂かれた。

…あいつに迷惑を掛けるわけには行かない。
俺なんかのせいであいつの人生が崩れていくなんて、俺が許さない。

だけど。
駄目だ。
堕ろすなんて選択肢は絶対にあり得ない。
この子を殺すことなんて出来るわけないだろ。
出来るはずがない。

ずっとずっと焦がれていた。
血の繋がり。
愛すべき家族。
腹で育み、産んでみせる。
この子の手を握り、慈しんで育てていくのだ。
俺1人だけでも。
大丈夫だ。

まだ、気付かれてはいない。
…気付かれては、いけない。

頭の中でぐるぐると考える。

引っ越さなければ。
この家を出て、新しいところを探さなければ。

こんな身重の女に部屋を貸してくれる所なんてあるのだろうか。
駄目だ。
考えろ。
この子を不幸にすることなんてできない。

だってこの子は。
最愛の。
あいつの。

じいちゃん。
去年の春に身罷った人のことを考える。
じいちゃんがいてくれれば、きっと助けてくれたのに。

兄貴。
駄目だ。
じいちゃんが居なくなってから、もう俺と連絡を取る気さえない。

会社の同僚。
俺の一番の仲良し。
伊之助。
駄目だ。
伊之助は巻き込めない。
あいつが覚えているかどうかは分からないけど駄目だ。
まさかこんなことになるなんて。

助けて。
俺のことはどうでも良いから、誰かこの子のことを助けて。

頭に浮かんだのはただ1人。
口が固くて、助けてくれそうな人。

ぐらりと立ち上がる。
…急いで。
…あいつが戻ってくる前に。
…引っ越しの用意をしなければ。






■▽■△■▽■






もしかしたらという淡い期待を抱いて病院へ行った。
おめでとうございますと言われ手渡された妊娠証明書。
それを持って役場へ行けば母子手帳が貰えますよとそう言われた時、俺は確かに舞い上がっていた。

『念のためですが、望まぬ妊娠の場合堕胎の選択肢もあります』
その説明に、「絶対にあり得ませんから!」と啖呵を切って帰ってきた。


確かに俺はまだ未成年だ。
だがきちんと働いているし、恋人だってまだ学生だけど働いている。
炭治郎が高校を卒業したら結婚しようとそう約束をしていたのだ。
家族にだって挨拶してるし、今だって2人で暮らしている。

だからなんの問題もない。
そう思っていた。

まだまだぺったんこの腹を撫でているとき、不意に頭の中に雷撃が走った。
それに引き摺られるようにして雷に打たれたときの記憶が蘇った。

雷。
じいちゃん。
最終選別。
炭治郎。
伊之助。
禰豆子ちゃん。
最終決戦。

頭が割れるかのような衝撃の後、背筋が急激に寒くなる。



…なにやってんだよ俺は…!
…炭治郎は幸せにならなきゃいけない奴なのに、その幸せを俺が奪ってどうする…!!
…こんな、俺なんかのためにあいつの人生をふいにしてしまうわけにはいかんだろうが!!!

ぎりぎりと噛みしめた歯を鳴らす。
前世に続いて俺は耳が良い。
だからそりゃもう仕方がないわ。
記憶もないまま炭治郎の音と出会ったんだぞ。
そんなの惚れてしまうに決まってるだろうが。

だけどさァ!
炭治郎!
お前も俺なんかに捕まってるんじゃないよ!!
その押しに弱いところなんとかしなさいよ!
長男だろうがお前は!
こんな元男の俺なんかを竈門家に引き入れてる場合じゃないでしょうが!!


この場にいない男に向かって心の中で悪態をつく。
勿論八つ当たりだ。
それは自分が一番理解している。





『今まで本当にごめんなさい。生涯あなたの幸せを祈り続けます』
それだけ書いた手紙を封筒に入れ、テーブルの上に置く。

俺が自分の部屋を引き払ってここへ越してきたとき、荷物を入れるために使った段ボール箱。
確かあれは、また今度広い部屋に引っ越すときに使おうと話してクローゼットに入れておいた筈。
俺が持参した私物は3箱。
またそれで事足りる。
だから大丈夫だ。
俺の存在はまだ、この部屋に浸透していない。
ここへ来たときと同じように、自分の荷物だけを箱に詰める。

元々荷物を増やすのは得意じゃない。
服も洗い替え分だけあれば良い。
着回しすれば良いし、食器も最低限で充分だ。
靴も2足。
鞄は1つで事足りる。

年頃の女の子の割には全然お洒落じゃないよねとかずっと言われてたけど、そりゃそうだ。
自分でも何でだか不思議だったけど今なら分かる。
…男だったからだよ。
そりゃ自分で着るための可愛い服とか要らんわな。
ましてや可愛い下着とかさぁ。
そんなの着て鏡見たら、俺泣くよ?吐くよ?
可愛い服は似合う女の子が着てこそだわ。

荷物を詰めて宅急便を呼ぶ。
その間にせめてもの恩返しとばかりに掃除をして綺麗に拭き清める。
水廻りも掃除したばかりだけど、もう一度きちんと掃除しておこう。

近くのコンビニで下ろせるだけのお金を下ろして備え付けの封筒に入れ、手紙と共に置いておく。
今度定期を崩して送金しておかなくちゃな。
この前教えて貰った口座番号はメモしてある。
『今度からはこれを2人の口座にして行こう』
そんなことを言われて浮かれていたっけ。
慰謝料になるかどうかもわからんけど、せめてこのくらいは受け取って貰わないと。

元とはいえ男を抱かせたなんて申し訳なさ過ぎて死ねるわ。
しかも相手が炭治郎。
一体何でこうなった。

たった今前世のことを思い出したばかりだが、それでも分かる。
あいつには昔の記憶がない。
そもそも記憶があったら無理だわな。
ごつくて足が太くて泣いてばかりの元同期。
しかも年上の男だぞ。
いくら体だけ女に産まれ変わってたとしても、だからといって抱けるようなもんじゃねぇわ。
俺なら吐くね!
想像だけで駄目だわオェェェェッッ。



それなのに、炭治郎にこんな無体を強いてしまったとか申し訳ないにも程がある。
本来なら俺が腹切って死んで詫びるべきなんだろうな。
いや死ねんけど。
せめてこの子が一人前になるまで。
それだけの間で良いから生きているのを許してほしい。

部屋の中を点検して忘れ物や磨き残しがないかを確認する。
もうこれで忘れ物はないはず。
元々俺が生きていくのに必要なものなんてほとんどないのだ。

保険証、妊娠証明書。
それだけはしっかりと鞄に詰め込む。

置いていくべきものは全て机の上に並べておく。
貰った指輪の入ったケース。
…悪かったな炭治郎。こんな奴のために結婚指輪なんて買わせちゃってさ。
詫びを書いた手紙。
慰謝料。
…本当は結婚資金にしようとか考えていたんだけど、身の程知らずにも程があったな。
まぁ指輪の代金だの迷惑料としては役立つから、初任給からこつこつと貯蓄しておいて良かったぜ。

それらをきちんと並べて置いて、貰っていた合鍵を手に部屋を出る。
かちりと金属の響く音がして、扉が頑なに閉ざされたことを確認する。

もう二度と来ることのない部屋。
扉のポストに鍵を落とせば、カランと言う無情の音が鼓膜を劈いた。




とりあえず仕事場に避難して、新しい部屋を探そう。
ていうか、今の職場の社長。
あれ宇髄さんだよね?
確実に宇髄さんだよね?
いや、話したことはないんだけどさ。
あの男前は見間違いようがないわ。

そんで多分、宇髄さんには記憶があるな。
おかしいとは思ってたんだわ。
こんな有名所の一流芸能プロダクション。
いくら新規事務所を展開するためとは言え、高卒でたいした資格も技能もない孤児の女を雇うなんてさ。
じいちゃんの知己だからってじいちゃんに紹介されるまま面接に行ったら即採用だった。
記憶があるんなら、きっと俺のこと助けてくれるはず。
一応仮初めとは言え身重の女だぞ。
宇髄さんが駄目でも、きっとお嫁さん達が助けてくれると信じている。

つかあれ、じいちゃん記憶あったな。
待ってくれ。
いや待ってくれ。
もしかして兄貴にもあれ記憶あったのか!?
だから俺のこと避けてたの!?

いやどうなんだ。
昔から俺、あいつが何考えてるか今ひとつ理解できない。

とりあえず思い出せば思い出すほど、今までの人生が割と暢気だったんだなってことだけが分かる。
いや、自分では結構悲壮な方かなとは思ってたよ?
おくるみに名前も入ってないまま捨てられていた孤児だったんだから。

じいちゃんに引き取られるまで施設で暮らし、兄貴とはずっと不仲のまま。
就職が決まりようやくこれでじいちゃんに恩返しが出来ると思った矢先、あっさりとじいちゃんは天国へと旅立ってしまった。

じいちゃんの口癖だった「幸せだな」の意味を今更ながらに噛みしめる。
俺だけきっと、何も分かっていないままだった。
ぽろぽろと涙だけが溢れ出す。



部屋からほど近い職場へと歩いて行く。
住んでいたマンションからは徒歩でも10分掛からない。
宇髄さんが経営している音楽会社。
そこで俺は楽曲作りアシスタントという仕事をしている。

ここには芸能人も来るから、外部から一般人が出入りすることはまず不可能。
社員の知り合いが来ても、呼ばれた本人が受付まで出向いてゲストパスを発行して貰わないと中には入れない。

炭治郎には、俺は小さな会社の事務員だと告げている。
会社の場所はこの辺りだと伝えているし、会社の名前も伝えている。
だが正式名称は伝えていない。
自分の所属している部門の名前がまるで会社名みたいだったから、それを告げただけだ。

嘘はついていないし、つく気もなかった。
でもなんとなくそれが習性になっていたのだ。
だから炭治郎と出会ったときも、思わずそれを告げていた。

正直に会社名を告げて、好きな芸能人に会わせてくれだのサインが欲しいだの隠し撮りして来いだのと散々やられた過去があってこそだ。

巫山戯るんじゃないよ。
芸能人なんざ俺だって出会したことねぇんだわ。



炭治郎。
俺のこと追いかけてきたりするだろうか。
堅物デコ真面目だから、俺なんかのことでもちょっとくらいは探してくれそう。

でも正直言って全て忘れて欲しい。
いや、忘れてくれ。

まさか前世で同期だった年上の男が、今世では女の子になって告白してきたとかそんな過去は忘れて幸せになってくれ。
お前もうっかりほだされてるんじゃねぇよ。
なんか知ってる奴みたいな気がしたんだろ?
残念だったな。
俺だよ。我妻善逸だよ。
覚えてなかったんなら仕方ないけどさ。
だけどさぁ。
お前ならもっと可愛くて気立ての良い子、選り取り見取りだったでしょうが。

足は太いし体も貧相だし顔だってちっとも可愛くないし、相変わらずの金髪金目で悪目立ちするしな。
こんな奴を抱いたとか、完全に忘れてくれ。
犬に噛まれたとでも思って忘れてくれ。
俺だぞ?
元男だぞ?
それが炭治郎に抱かれて炭治郎の下であんあん喘いでいたとか、炭治郎だって考えただけで確実に吐くわ。
オェェッ!!
あの時の自分を思い出しただけで俺の方が嘔吐くくらいだよ。


これで俺の仕事がスーパーのレジとかだったらやばかったかもしれない。
炭治郎のあの勢いだと、会社名から辿って探しかねない。
それはやばい。色々と。



それにしても、なんか思い起こせば周りに結構知り合いいたのね?
宇髄さんのお嫁さんたちだけじゃない。
元柱の人達までいる。
まぁほとんどの人とは俺、前世も今世もあまり話をしたことないんだけどさ。
だけどあの人達のことは、オーラが凄いなぁって思いながら見てたんだ。
凄い人は生まれ変わっても凄いんだな。

伊之助くらいだよ。
俺と遊んでくれる気の良い奴はさ。
顔が良いから俳優さんだと思ってたら、まさかの力仕事担当の一般職だった。
そんなことある!?
あの顔、あの見た目!
性格だって良いんだぞ。
確かに中身は一寸おぼこいけどさ。
それが伊之助の良いところでしょうが!
なんたって、こんな俺とつるんで遊んでくれるのは伊之助だけなんだから。

つかさ、今気付いたけど名前まで全員前世と一緒かよ。
こんなことってある?
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