鬼滅の刃
□ピアノと善逸
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「…善逸…」
音の主らしい少年が、俺を見て優しい笑みを零していく。
赤みがかった髪。
綺麗な性質が透けて見えそうな赤い瞳。
綺麗な音をさせている、綺麗な顔の少年。
目が離せない。
いや、耳が離せない。
人が立てる音で、こんなにも感動したのは生まれて初めて。
穏やかな陽の光のもと、綺麗に澄んだ水面に映る空の青を見ているような音。
聞いているだけで、柔らかくて心地良いものに包まれているかのような、そんな音なんだ。
胸の中がじわじわと温かで優しいものに満たされていく。
どんどん音が近づいてくる。
零れそうだった涙がついっと頬を伝う。
音の主である少年が、俺の手を握る。
「…ようやく会えた…。善逸…」
見ると少年の瞳からも涙が零れている。
こんなにも綺麗な雫を見たのもまた、産まれて初めて。
「…炭治郎…。竈門、炭治郎だ。…善逸には、炭治郎と…。そう、呼んで欲しい…」
俺の手を握る手のひらまでもが温かい。
見た目よりも厚くて固くて、肉刺が潰れたような痕がいくつもある。
でも繋がれた手のひらからさえ、その気性が善であり仁であることが伝わってくる。
何も言えないまま肉刺のあとを撫で、彼の瞳を見つめる。
「…あぁ、これか。…何かあったとき、大切な人を守れるようになりたくて…。それで個人的に鍛錬をしているんだ」
そう微笑んだときの、温かくすべてをくるみこむような強い瞳。
吸い込まれそうなその瞳から目が離せない。
「…遅えんだよ、紋逸…!」
呆けていると、力強い音と主に背中に衝撃が走る。
「駄目だ伊之助!いきなり頭突きはまずい!」
「うるせぇ!こいつがもたもたしてるからだろうが!」
「だからといって頭突きは駄目だ!善逸は演奏家なんだぞ!怪我をさせるようなことをしちゃいけない!」
思わず振り返る。
「…えっ!?美人!?」
同年代くらいだろうか。
凄まじい美少女が目の前にいた。
「えええ!?宇髄さん、野郎しかいないって言ってたじゃん!美少女がいる!」
後ろを振り仰ぐ。
「何言ってやがる遅逸!」
美少女の口から低音の声が響く。
「えっ…」
思わず固まる。
…嘘でしょ。顔はこんなに美少女なのに、男なの!?
思わず上から下まで見つめれば、確かにがっちりとした体に白のシャツと黒のズボンという出で立ちだ。
「こんなことある!?…嘘過ぎない!?」
天の采配が信じられない。
「…善逸。伊之助は間違いなく男だ」
柔らかな声が耳をくすぐる。
すごい。
この人、音だけじゃなくて声まで優しい響きを持っている。
綺麗な顔。
優しい音。
黒いシャツに、黒いズボンを履いて…。
そこまで見て取り、自分の格好に血の気が引く。
「…やだごめんなさいね!?今日は撮影ないって聞いてたからこんな格好なんだけど、ちゃんと演奏用の服も持ってるからぁ!宇髄さん言っておいてよぉ!そしたら俺、ちゃんと演奏用の服を着てきたのに!」
「良い服着てこいって言っただろうが。あえてそれを着てきたのはお前だろ」
呆れたような瞳が俺を見下ろす。
「…、いや、だってさぁ…」
急に恥ずかしい。
俺だけ普段着。
しかも変な柄のTシャツにハーフパンツ。
俺だけ浮いてる。
何かが隠れるわけではないけれど、きゅっとTシャツの裾を引く。
瞬間、横からどんっと言う激しい音が聞こえた。
「…え…?何の音…!?」
「そういうところだぞ善逸!」
優しい音の持ち主が、俺の体を抱きしめる。
密着したことでより一層彼の音だけが俺の体に満ちていく。
その穏やかな日だまりのような音が奏でる心地よさに取り込まれて、俺自身まで蕩けてしまいそうなほどに気持ちが良かった。
「…ずっとずっと探していたんだ。どうしても見つからなくて、善逸に見つけて欲しくて、それで俳優になって…。善逸の音楽を聴いたんだ。全然変わらない、優しくて強い歌と音…。でもそこから先が分からなくて…。善逸は顔と素性を出さないことで有名だったから、伝手も何もなくて…。宇髄さんから声を掛けて貰えなかったら、善逸に会えないままだったかもしれない…」
俺を抱きしめたままの彼の瞳から、涙が零れる音がする。
「…久しぶりの善逸の匂いだ…。ちっとも変わってないな…。相変わらず、強くて優しくて…とても甘い匂いがする…」
すんすんと鼻を鳴らしている彼の背中におずおずと手を這わせる。
なんだか分からないけど、彼が泣いているのは俺のせいみたい。
それも気になるけど、彼のたてるこの音が哀しそうなことが何より気がかりだった。
さっきまではお日様のような音を立てていたのに、今はしとしと雨で隠れてしまったお日様の音がする。
…切なそうな、哀しそうな、…でもその中に、歓喜の音も、間違いなく。
彼の感情の奥の深さにじんわりと胸が締め付けられる。
「…俺だって探していたんだぞ!紋治郎に会いに行ったら、会わせてやる代わりにお前もモデルをしろとか言われて、俺まで巻き込まれたんだからな!」
美人の彼が俺と彼の背中にそれぞれ手を這わす。
その手の熱と力強い音にますます涙が止まらない。
初めて会う人達の筈なのに、胸の奥底から懐かしくてたまらないという音が響いてきているのだ。
俺はとうとう彼に抱きついたまま、子どものようにおろろんおろろんと泣き出してしまって、彼らを相当に困惑させてしまった。
「…落ち着いたか…?」
「…うん…」
涙を拭いてくれる優しい手の熱が心地良い。
部屋にあったソファの上に2人で並んで座る。
なんだか力が抜けてしまって、うまく立てない。
「…お腹は空いていないか?」
「うん…落ち着いたらなんか…。腹減ってきた…」
「何か食べるもの…持ってないのか?」
「ない…」
「ほらこれ…食べるか?」
「あぁ…ありがとう…」
差し出されたおにぎりを受け取る。
もぐ、と一口食べると、その美味しさが口いっぱいに広がった。
こんなに美味しいおにぎりを食べたのも、産まれて初めてかもしれない。
その時、隣から微かに切なそうな音が聞こえた。
硝子にぴきんと音が入ったときのような、辛そうな音。
「…炭、治郎は…」
彼は先刻、名前で呼んで欲しいとそう言っていた。
初対面の相手を名前で呼ぶのもどうかとは思ったけれど、恥なら既にたくさん晒している。
思い切って言葉を紡ぐ。
「…食わないのか?」
差し出されたおにぎりは1つきり。
炭治郎の手にあるのは空の竹皮だけ。
「…うん…それしかないから」
切なそうな音が深くなる。
「…」
お腹が空いているのだろうか。
このおにぎりを気にしているような、そんな音がする。
手の中のおにぎりを半分に割る。
「…ほら」
綺麗な方を彼に手渡す。
「…半分、食えよ…」
「え…いいのか?…ありがとう…」
嬉しそうな音を響かせて、彼がおにぎりにかじりつく。
…変なの。
…元々、炭治郎のおにぎりなのに。
…なんでそんなに嬉しそうな音を立てているんだろう。
手の中に残った半分のおにぎりを食べきったとき、ようやくそれに気付く。
…部屋の中の人達、全員めっちゃ俺のこと見てるね…?
宇髄さん。
炭治郎。
伊之助、と呼ばれていた美人。
誰からも不快な音はしないし、むしろ心地良くて懐かしいようなそんな音ばかり聞こえてくる。
人見知りをしてしまう俺が、初対面の人と過ごしてこんなにも落ち着けるなんてかつてないことだ。
…なんでこんなに皆俺ばかり見てるんだろう。
…そう言えばさっき、炭治郎が何か言っていたっけ。
…炭治郎の音を聞くことに夢中で、音と声の優しさに溺れていたから、内容はあまり覚えていない。
あまりにも見つめられてちょっと照れくさい。
…そう言えば、今日の予定って何だったっけ。
…確かピアノを弾いて、食事、だったような。
目の前に置かれているグランドピアノの存在を思い出す。
…あ。今なら俺、すごく良い曲出来そう。
即興で弾いて歌っても、後からちゃんと譜面に起こせるのが俺の特技だ。
そのお陰で食べていけるだけ稼いでいるんだから、ここで少しは汚名返上しておきたい。
「…炭治郎達はさ、俺のピアノを聞きに来てくれたんだよね?あんまうまくないけど、聞いてくれよな」
ハンカチで手を拭い、涙の後を拭ってから、ピアノの前に座る。
そうするだけで背筋がしゃんと伸びていくから不思議だ。
炭治郎から聞こえてくる音。
伊之助から聞こえてくる音。
…それを懐かしく、幸せな音として受け止めている自分自身の音。
感じているままのそれらを音符として旋律に乗せ、ピアノの鍵盤を弾いていく。
泣きたくなるほど優しい音。
それにメロディだけの声を乗せて歌っていく。
綺麗な赤い瞳から、大粒の涙が零れていく。
それを見ただけで、俺の胸が締め付けられるような、そんな想いを味わった。
穏やかな日だまりのような、優しい音。
泣きたくなるほどただひたすらに優しいその音。
力強く、温かで、包み込まれるような音。
…その中に潜む、切ない音。
哀しい。辛い。どうして。
絶望しそうな哀しみの中、それでも希望を失わず前を向いていこうと健気に耐えている。
俺と変わらない年齢に見えるのに、深く深く澄み渡った音。
哀しみの中に、情念のような、情欲のような、そんな熱の音もする。
切望している。
希求している。
絡みつくような欲望を抱えながらも、それでも尚その優しさが彼の根本を司る。
不思議な音だ。
いつまででも聞いていたい、魅惑的な音。
もしも彼がこの音を誰かに向けるのだとしたら、きっとその相手は速攻で恋に墜ちる。
抗えない。どれだけ拒んでもその相手は必ず彼に恋をする。
絶対あり得ないけど、もし俺が彼からこんな音を向けられたら、その瞬間恋に溺れてしまう自信がある。
…どんな人生を送ったら、こんな音を出せるようになるのだろう。
ピアノを弾きながらも、俺は彼の音を追うことに夢中だった。
一曲目を弾き終わり、次の音へと向かい合う。
伊之助…。
力強く逞しく、何処までも清廉潔白な音。
思いやりがあって、何処か子どもみたいで、その魅力から目が離せない。
きっと彼は、一度受け入れた相手のことは守り通そうとするのだろう。
そんな強く剛健な意思を感じる音。
どちらも俺の心を捉えて離さない。
いつまででもずっと聞いていたい音。
きっとこの音を聞きながらだと、よく眠れるんだろうなぁなんて思う。
俺は良すぎる耳のせいで眠りが浅いから、こんな音を聞きながら眠りについてみたい。
そうだ。先刻弾いた彼の音を、眠りやすいようにアレンジしてみよう。
自分のために。
炭治郎と伊之助の音に溺れながらも曲を弾ききる。
旋律だけの声を乗せて、深く高く低く歌いきる。
どちらも俺にしては結構長い曲になってしまった。
はふっと息をつく。
「…どうだった?…気に入って貰えたら、嬉しいんだけど…」
語尾がすぼまる。
2人とも泣いている。
歓喜。切なさ。苦しさ。どうして、というやりきれない想い。
…何故なんだろう。
俺を見る度に、喜びと遣る瀬無さと苦しさが混ざったようなそんな音をさせている。
その音を聞いているだけで、俺までなんだか苦しくなってしまう。
しゅん、としょんぼりする。
そう言えば宇髄さん、俺が即興で弾いた後はすぐに譜面を起こせとかせっついてくるのに今日はそれがない。
どちらの曲も長くて、この2曲だけでCD出せそうなくらいだったのに。
まぁ俺は覚えているけど、譜面に書くのは正直面倒くさいからせっつかれないとなかなか着手しない。
それを知っているから、忘れないうちに起こせと力尽くで引き摺られたりしてきたのに。
…今日の宇髄さんはおとなしい。
なんだか不思議だ。
いつもと違う雰囲気にそわそわする。
落ち着かない。
身の置き場が見つからない。
…だけどここから離れたくない。
ずっとずっと、この音を聞き続けていたいんだ。
もじもじしていると、炭治郎が俺の手を引き立ち上がらせる。
そのまま腰を引き寄せられて抱きしめられる。
「…やっぱり、善逸は善逸だなぁ…。好きだよ、善逸。優しいところも、強いところも。善逸の全てが好きだ…」
耳元で囁かれてぼんっと顔が赤くなる。
「…そそそ、そういうことは女の子相手に言いなさいよ…!俺が勘違いしちゃうでしょうが!…とんでもねぇ炭治郎だ!」
絡みつく体を押しのける。
「…勘違いじゃない!俺はずっとずっと善逸を探していた!善逸のことを愛しているんだ!」
炭治郎が俺の手を握る。
「…俺の恋人になってくれ。将来を約束してくれ。頼む、善逸」
熱を帯びた赤い瞳が俺に迫る。
「…!?」
あまりに驚きすぎて言葉が出ない。
この彼が?
炭治郎が?
俺のことを…好き…?
処理しきれない感情が俺の中に渦巻いていく。
歓喜。熱情。情火。
俺の中から初めての音が鳴り響いていく。
炭治郎の中からも、激しい炎のような音がする。
だけどその音ですらやっぱり優しくて、泣きたい気持ちがこみ上げる。
「…すまない善逸!そんな匂いをされては俺が我慢できない!このまま接吻しても良いだろうか!」
「え…?えっ!?」
「拒絶の匂いがしないので失礼する!」
再び抱き寄せられて、心地良い音を立てる腕の中で、きつく抱きしめられたまま口を吸われた。
それが全然嫌じゃない。
…むしろ…、もっとして欲しい…、そんな感情に溢れてしまって…。
気が付いたら彼の背に手を回して、俺もまた彼を強く強く抱きしめてしまっていた…。