鬼滅の刃

□避けられ善逸と避けた長男
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重い足を引き摺るように蝶屋敷に辿り着いてしまうと、中からは炭治郎の音も禰豆子ちゃんの音も聞こえては来なかった。
任務だろうか。
俺と入れ違いで。

ほ…と息をつく。

あんな話を聞かされたあとで今会えば、みっともなく狼狽えて、そのままただの同期としてすら会えなくなってしまう羽目に陥りそうだった。




その代わり伊之助の音も聞こえない。
どうやらどちらも任務なんだなと聞き取って、そっと与えられている部屋へと潜り込む。

炭治郎がいれば、おかえり、ただいま、と挨拶をするのが常だった。

だけどここは蝶屋敷であって俺の家ではないし、そう挨拶するには、当初はなかなかに抵抗があった。
それを覆したのが炭治郎だ。

「ここは皆が戻ってくる場所なんだから、帰ってきたらただいまと言って欲しい。そうしたら俺もお帰りと言うから。その代わり、俺が帰ってきたらただいまと言うから、その時はお帰りと言ってくれ」
そう言われた時の眩しい笑顔は何時だって思い出せる。

だけど今は炭治郎がいない。
なので何も言わないまま、静かに部屋で荷ほどきをする。
ちりんと硝子の触れ合う可憐な音を立て、根付が2つ転がり出る。

それを指先で摘まみ取り、ちりん、ちりん、と音を立てさせる。


…先輩も今頃は家へと帰っている頃だろうか。
幼馴染みだという彼女に、あの飾りを渡している頃だろうか。

…なのに俺は、こんなにも1人だ。

自嘲する事すら出来ないまま、その場へと寝転がる。

人の声。血が流れる音。風が木々を揺らす音。虫の声。厨で立てられている音。
そういった音達が耳の中へと流れ込む。

そのままゆるりと、だるさとしんどさの中へ体を預けて時が過ぎるのを待ち侘びた。









「…もう良いよ、紋逸で。いっそもう俺、紋逸に改名しちゃおうかな」
そう言ったとき、炭治郎は「駄目だろう、そんなことは」と柳眉を逆立てて怒っていた。

「でもさぁ、いっそ紋逸に改名したら、伊之助も俺のこと善逸って呼ぶようになるかもよ?」
軽い気持ちで呟いた言葉だった。

「名前はきちんと呼ばないと駄目だ!俺は!竈門炭治郎だ!善逸は善逸だ!我妻善逸!」
そう言って、伊之助に向かって胸を叩いて見せていた。

…あぁそうか。
こいつは親から貰った名前だから愛着があるんだ。

僻みでも妬みでもなくそう感じた。

思えば伊之助もそうだ。
カナヲちゃんの名前をつけたのはしのぶさんのお姉さんだと聞いている。

大事な人から大事にされてつけて貰った名前。
だから皆大事にする。

俺だけだった。
おくるみに名前も書かれないまま捨てられた。
赤ん坊を押しつけられた先の寺で、流れ作業のように名前をつけられた。
愛着も何もないまま生きてきた名前。
それが『我妻善逸』だ。

いかにも俺にふさわしい。
すとんと腑に落ちた。

そこからはただ黙って、炭治郎と伊之助が言い合いをするのを見つめていた。





寝転がっていると、まるで俺を慰めるかのようにチュン太郎が周りを飛び跳ねる。

「…あぁ…炭治郎に…、会いたいなぁ…」
ぐすんと鼻をすする。
会えないと分かると会いたくなる。
先刻まであんなに会いたくないと思っていたはずなのに、いざ会えないとなると焦燥感で胸が焦がれる。
会ってあの音を聞きたい。
遠くからで良いから。
炭治郎の音も伊之助の音も聞こえてこない場所はこんなにも心細い。
こんな想いを抱えている俺なんかは会えた義理じゃないけど、遠くからあの優しい音を聞かせて貰えたらそれだけで良い。

「お前も、会いたいよなぁ?ごめんな。俺じゃ、お前が何を言ってても分からなくてさ」
そう言って撫でると、チュン太郎が寂しそうにチュン、と鳴いた。

心配そうに俺を見つめるチュン太郎の頭を撫でる。
「…ありがとな。お前は本当に優しいな…」





同じ部屋で過ごしていた、最後の朝。
あの日のことを思い出す。
今と同じように、炭治郎も伊之助も任務に出掛けていた。

そうして深夜に任務から帰ってきた炭治郎は、ゆったりとした音を立てながら隣の布団で眠っていた。
だから起こさないよう朝の身支度をし、1人で朝餉を終えて帰ってきたときのことだった。

眠っていると思っていた炭治郎が起きていて、脱ぎ散らかしていた俺の寝間着を握っていた。
その背中からは普段の彼には似つかわしくない音が出ていて、少し臆しながら話しかけたのだった。

「ごめん、あとで片付けるからさ、置いておいてよ」
そう言うと、驚いたように炭治郎が振り返った。
その顔に般若の形相の片鱗を感じ、瞬間怯む。
するとその匂いを嗅ぎ取ったのか、炭治郎がふいっとそっぽを向いた。

「ごめんな。本当に後でやるつもりだったんだよ。俺、前にも炭治郎に注意されてたのになぁ」
炭治郎の手から引き抜いた寝間着を持って洗い場へ持って行った。
あの時のおかしな音。

…あのあと、炭治郎には再び任務が入り、炭治郎が戻る前に俺にもまた任務が入り。
そうして気が付いたら、いつの間にか全然別々の部屋が用意されていたのだ。

俺がだらしないから。
炭治郎だって呆れていた。

はぁ、と息を吐く。


惰性のように夕餉を取り風呂へと入る。
この離れにも風呂はあるけど、俺1人のために沸かすわけにはいかない。
母屋へと赴き、そこで1人ざざりと湯を浴びる。



部屋へ戻ると、いつの間にやらチュン太郎は姿を消していた。
あいつはいつも何処で寝ているんだろう。
ちょっとだけ寂しい。

ぐすんと鼻を鳴らして布団を延べて潜りこむ。
今日はこのまま寝てしまおう。
伊之助もいないから、今夜は本当にこの離れで一人きりだ。

静かなはずなのに、それでも母屋の方から聞こえてくる楽しそうな音達に、泣きたくなるほどの寂しさを覚えてしまった。

寝間着の袷をぎゅっと握る。
寒い季節でもないのに、背中がぶるりと震えてしまった。
布団をかぶり、そのまま丸まるようにして眠りについた。












その音に気付いたのは夜半だった。
遠くに梟が鳴いている。
その音を掻き消すように、焦燥感に焼かれているような音が聞こえる。

耳を澄ませば、どんどんこちらへ向かってくるのが分かった。

「…炭治郎…?」
泣きたくなるほどの優しい音に、胸をざらつかせるような異音が混じっている。
ずるずると体を引き摺るようにこちらへ向かう音。

…血鬼術…?
鬼の術に操られている音がする。


さぁっと血の気が引く。
慌てて飛び起きる。
「…炭治郎っ!」
廊下の壁に手をつくようにして歩く炭治郎の肩を支える。
「母屋の方に…!今夜はしのぶさんがいるから、そちらへ…!」
「大丈夫だ。…鬼は切った。離れてくれ。…今は近寄らないでくれ…」
普段よりも熱い手のひらが差し出した俺の腕を弾く。

「でも!その音は…!!」
炭治郎の背中から禰豆子ちゃんの箱を降ろす。
それを抱えて炭治郎の部屋まで体を支えながら歩む。
「禰豆子ちゃんは大丈夫なのか?!とりあえずここに降ろすから、お前はしのぶさんのところへ…!」
「…禰豆子は無事だ…」
「ならとりあえずこのままにしておくな?!寝ているようだし、あとで布団に寝かせておくから、お前は」
言い終わる前に腕を掴まれた。

「…善逸はいつだってそうなんだな」
熱を帯びた赤い瞳が俺を見据える。

「そうやって、誰にでも優しさを振りまいて…。だからあんなに色んな人が、お前に懸想なんかしてしまうんだろう?…どうして自重しないんだ?なぁ」
軽く突かれて、部屋の壁に体をぶつけてしまう。

「何言ってるんだよ。それよりも早く、お前の方が」
ぶつけた肩を更にどんと押されて、そのまま腕の中に囲うようにして壁に縫い止められる。

「…どうして駄目なんだ?俺は駄目だってどういう意味なんだ?あんなに結婚したいって喚いてたじゃないか。…どうして最近は言わない。誰に告白をされても断っているのは何故だ。…本当はもう、誰か心に決めた人がいるんじゃないのか。どうなんだ」
真っ直ぐに俺を見つめる赫灼の瞳から目が逸らせない。

「…しのぶさんのところに…、行こう…?」
俺を縫い止めている腕に手を掛けると、炭治郎が顔を歪ませる。

「行くつもりはない。…お前にはもう音で分かっているんじゃないのか。俺が掛かっているのは色欲を増幅させる術だそうだ。切った鬼がそう言っていた。…だから逃げた方が良いんじゃないのか、善逸。…いつまでもここにいるつもりなら、俺だって我慢はしないぞ」
囁かれるように紡がれた低い声。
熱い手のひらが俺の体の線をなぞった。

…本気だ。
嘘偽りでも、冗談でもなく。
きっと誰でも良いんだ。その色欲とやらを満足させられるのなら、誰でも。

だから。
母屋へは行けない。
しのぶさんにも会えない。

ぞっと寒気が込み上げる。



…なら、俺は逃げた方が良いのだろうか。
炭治郎に人を襲わせるような、そんな真似をさせるわけにはいかない。
1人の方が良いのだろうか。
そう思って障子に手を掛けた時、耳に母屋から聞こえてくる穏やかな寝息と、禰豆子ちゃんが奏でる綺麗な音が届く。

駄目だ。
今の炭治郎を1人にしておくわけにはいかない。
もしもこの血鬼術が強固なものであったとしたら。
炭治郎の意思をねじ伏せて誰かを襲わせるような、そんな力を持っていたとしたら。

禰豆子ちゃんは穏やかに寝ている。
その前で、炭治郎の体で誰かを傷つけさせるわけにはいかない。

母屋にはアオイちゃんやすみちゃん達だっている。
もしそちらへと意識が向くような事があったら、取り返しのつかないことになる。

だったら俺は、ここから逃げるわけにはいかない。

…炭治郎の意思ではないのだ。
鬼の。血鬼術。
だから。

障子から手を離す。
炭治郎から聞こえる、この『情欲』の音。
これを先になんとかしなければならない。
少しでも落ち着かせて、吐き出させなければ。
これ以上、炭治郎の重荷になるようなことを、この体でさせるわけにはいかない。
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