結界師二次創作「兄さんと僕。その7」
□爪痕
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…冷たい風を頬に感じる。
眼下に広がる烏森は、近づくものすべてを飲み込んでしまいそうな深い暗がりを湛えている。
まだまだ宵の口と言っても差し支えない時刻のはずなのに、今にも雪が降り積もりそうなこの寒さのせいで街中にも人の気配が薄い。
―…暖かな家の中で、家族団欒の時間なのだろうか…。
自身が作り出した結界の上で正守は佇み続ける。
街灯もないその場所は、深遠の闇を裡に孕んでその場をしんしんと覆い隠す。
その過去も、その歴史も。
この地を守護する使命のもとに産まれた、結界師の家系のことなどなかったかのように。
毎夜のごとく繰り返されていた死闘のことなど、記憶の中にもないかのように。
周囲を囲む住宅街の明るく暖かな光の中で、そこだけぽっかりと暗黒をのぞかせた烏森の姿にため息をもらす。
そっと右手をひらく。
そこにかすかに残る爪の痕。
数多の戦いの中で、あたら若い命を失った。
己の身がいたらなかったそのために、若い命を犠牲にしてしまった。
そのとき握りしめた手のひらに刻まれた爪の痕は、今でも消えることはない。
生涯背負っていくものだとそう覚悟を決めている。
狂気を引き出す力。
強大で破格な力。
それが裡に秘めている滅亡の音など聞こえていないかのように、あれだけの人々が、妖したちが。
…その力を手に入れようともがき続けてきたのだ…。
だが結局、謎を解明するこの地の蓋をあけてみたら…その中に何も残りはしなかった。
子を想う父の狂気。
荒れ狂う力に囚われたままの幼子。
ただそれだけのことでしかなかったのだ…。
その力を鎮めるために、母が犠牲となった。
今更自分がそれをどうにか出来るとは思えない。
あれだけの能力者であった母が長年調べて辿り着いた結論が、そうそうたやすく覆るとは考えにくい。
…だけれどそれでも、もしかしたらという期待を捨てきれない。
かすかな望みを絶ち切れない。
母が封じた覇久魔の地。
そこでは術の痕跡さえうかがうことは出来なかった。
どれだけ目を凝らしても、気配を追跡しようと試みても。
だから。…長年封じられてきた烏森なら、或いはと。
…慣れ親しんだこの地が、なんらかの糸口になればと。
それでこうして繰り返し足を運んではみるものの、今のこの地からは何らの気配も感じることが出来ないままでいる。
―…はぁ………。
長い長いため息を吐き出していく。
今から考えても母は不思議な人だった。
何を考えているのかが、周りからはどうにも推し量れない人。
あれだけの力を与えられていながら、正統後継者の地位になどかけらも執着してはいなかった。
自分があれだけこだわっていた正統後継者の印。
それさえも、まるで路傍の石を見るかのような冷めた瞳で見つめていた。
その程度のことは、母にとってはほんの些末事に過ぎなかったのだ。
烏森に選ばれるかどうかなど、きっと本当に興味はなかった。
ただひたすらに、あの荒れ狂う力をどうやって消し去ろうかとそのことだけを考えていた。
…母にそうさせたのは俺のせいだ。
冷たく固い何かが胸の奥から突き上げる。
自分の能力に自信があった。
まだまだ拙さの残る良守などよりも、よっぽどうまく力を奮えていると感じていた。
若年の身で、裏会夜行の頭領。
自分には素質があり、力があると信じていた。
…なのに方印が出ない。
方印をもつ良守が、俺の目からその印を包帯で覆い隠してしまうほどに。俺はその印に執着していた。
方印が後から出た試しはない。少なくとも、自分で調べた範囲の中には。
ならば諦めなければならない。
他にやるべきことを探さなくてはならない。
裏会。夜行。やりがいも重責もある役目を与えられた。
ならばそれに向かって邁進していけばそれでいい。
…なのに胸の奥で、どろりとした黒い液体が広がっていく。
粘着。それでも俺は正統後継者となりたかった…。
良守を見るたびにからかうような口調で修行不足を責めた。
笑いながら手助けをするふりで、心の中では嘲り笑った。
良守は大事な弟だ。かけがえのない大切な家族。
それを傷つけるものは許さない。
そう思いながらも、良守の存在を感じるたび、黒い泥が胸でくすぶる。
端からじりじりと、煙も上げずに胸を焦がし尽くしていく…。
次第に焼け野原になっていく心。
息づく緑の芽吹きさえ感じない不毛の地。
…そんな俺のひた隠しにしていた葛藤を、それでも母は誰より正確に感じ取っていた。
偉大な能力者。
次元の違う能力者。
…それでいて、何度教えられても家事はからきし駄目だった。
焦げた煮物。
生煮えの煮魚。
味付けどころか、調理の種類を間違えたとしか思えない料理の数々。
…そしてあの、黒焦げのケーキ。
甘いものが好きだと主張する良守をつれて、母は時折喫茶店を訪れていた。
何度か遠目にそれを見かけて、声もかけずにその場をそっと立ち去った。
ある日も母と一緒にパフェを頬張る良守を見かけて、気配を消して姿を隠した。
卑屈な考えばかりが頭に浮かぶ。
―…正統後継者だから大事にされている。
そんなはずはないのに、そう感じてしまう自分自身に心底嫌気がさした。
それから何日かのち、食卓に突然ケーキが並んだ。
黒焦げのスポンジ。
炭のようになっていたのであろう部分を取り去って、明らかにホイップに失敗した生クリームを塗りたくられていた。
良守が母に何かを言ったのだろうとは気づいていたけれど、出来たケーキを見下ろしながらしょんぼりしている母には何も言えなかった。
まだまだ幼かった利守の口に父がケーキを押し込むと、泣きながら吐き出していた。
それを見て、母が下げようとケーキの皿を持ち上げるのを、父さんと良守と一緒になって必死に引き留めた。
そんなものが食えるかと席をたった祖父の分まで、三人で完食した。
焦げたところは苦かったし、焦げていないところは生焼けだった。
どう考えても美味しい筈もないそれが、俺が今まで食べた中で一番幸せな味がするケーキだった。
それからも、何度かケーキは食卓に姿をあらわした。
何度やっても上達しない。
だけどそんなケーキが最高に美味しいと感じられたのだ。
ある頃から、ケーキは形を整え見た目にも美味しそうになってきた。
幼かった良守が、母とともにケーキを焼いて、母にその作り方を教えていく。
見た目がよくなり、味がよくなるに比例して。
…母の味は急速に薄れていった。
だからだろうか。
いまだに俺は、外で他人の作ったケーキを食べることがない…。
あの焦げた炭の味。
生焼けのスポンジの粉っぽい味。
あれを何度も思い出す。
食べているときからずっと心を締め付けるような切なさを感じていた。
俺はきっと、これから先これ以上に幸せなケーキを口にすることはない…。
その予感は現実となった。
あれから10年以上経っているというのに、未だにあの瞬間を越える経験をしていない。
反して良守の腕は上達した。
烏森がなくなった今、パティシエになりたいという夢を叶えることに差し障りはない。
…きっとあいつはそうするのだろう。
良守はあれでいて、自分の望みを叶えていく力強さを持っている…。
肺の空気を入れ換えるように、長い長い息を吐く。
冷たい夜風が少しは頭を冷やしてくれる。
…未だに祖父は、俺との距離を掴みかねている。
正統後継者となれなかった長男。
早くに家を出ることを選択し、悪評高い夜行の中に身を投じた。
そんな俺を気遣うような気配を、何処かで常に感じていた。
思えば祖父も正統後継者。
…正統に選ばれなかったものの気持ちはわからない。
それで一層、正統後継者に選ばれた良守には厳しく当たっていたのだろうとそう思う。
俺を差し置いて正統に選ばれたのだから、努力をして当たり前なのだとそう。
…きっと、祖父自身が正統に選ばれたときも同じようなことがあったのだろう。
甘いものが嫌いな訳ではないのに、いつだって良守のケーキ作りを邪魔していた。
…祖父もまた、ケーキを見るたびに母の作ったあのケーキを思い出すのだろうか…。
…一口くらい食べていたら良かったと、そう。
結局本物の母には会えずじまい。
精巧な式神を娘と信じ怒鳴りつけていた。
最期に見た本物の母は。
…家を出る前の、あのときの母だったはずなのだ…。
再びため息をつく。
結局今夜も収穫なしだ。
…あの頃にはあれだけいた妖しが、ただの一匹すらも姿を現さない。
母の術にほころびがあろうとも思えないが、こうなるとその完璧さが恨めしくもある。
もう少しなんらかの足がかりを与えてくれても良かったのに。
覇久魔には無理でも、この烏森の地には何らかの手がかりめいたものを残しておいてくれても。
闇夜の中で苦笑する。
まだまだ俺は未熟だ。自身の至らなさを他者に還元してしまう。
それをこうして思い知らせてくれている…。
…いくつになっても、親は親か。
結界を操る。
今夜は実家に泊まることになっている。
きっとまた父が張り切って大量の食事を用意してくれていることだろう。
良守が楽しみにしていろと笑っていた、秘伝の新作レシピとやらも取り分けられているに違いない。
―…焦るな。
―…母でさえあれだけの時間をかけたのだ。一朝一夕に解決できる問題ではない…。
…何かをしなければならないのだという焦燥感と戦いながら、手のひらに残る傷痕を見つめ続ける。
確実な仕事を。
誰も危険に晒したりしないですむやり方を考えなければ。
失ってしまったものたちに想いを馳せながら、明るい光に向かって足を進ませていく…。
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