結界師二次創作「兄さんと僕。その8」
□弟の独白〜良守編〜
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俺は兄貴が泣いているところを見たことがない。
昔からいつも、ひょうひょうとしている姿ばかりを見てきていたのだ。
俺が悪戯をしたときも、何処か馬鹿にしたような顔で笑っていた。
「お前、これ仕掛けてるとき楽しかった?」
そんなことを言いながら、俺が書いた「バカあにき」なんて文字を指差していたくらいだ。
もちろん笑われて俺は機嫌を害する。
「しらねー!ばかあにきっ!」
そう言って怒鳴って、兄貴に背を向けて部屋を出る。
兄貴が怒ってくれたらいいのに。
もっと俺に感情をぶつけてきてくれたらよかったのに。
…多分きっと、そんなことを思っていた。
俺の右手にあらわれた正統後継者の方印。
それを見るときだけ、兄貴の顔から嘘臭い笑顔が消えた。
あの嘘みたいな笑顔を向けられるのも嫌だったけれど、それより兄貴のあの無表情な能面みたいな顔を見る方が余程嫌だった。
それなのに兄貴は俺に何も言わない。
あれだけ優れた能力を持つ兄貴にではなく、俺なんかに方印が出た。
…そのことについて、俺に対して何かを言ってきたりしたことは一度もなかった。
だけど、あの方印を目にしたときにだけ、兄貴の顔からすっと表情が消えていく。
…いつからだっただろう。
俺があの右手の方印を隠し始めたのは。
いつからだろう。
…この方印なんかがあったりするから、俺は兄貴に何処か線を引かれてしまっているのだと思うようになっていったのは。
利守や父さん、じじいに見られたところでどうということはない。
だけど、兄貴に見られるのだけはなんでか酷く嫌だった。
それはきっと、本来この方印がでるべきなのは兄貴なのだと思っていたから。
兄貴こそが正統後継者にふさわしい。
…なのに、どうして俺なんかの手に出てしまったのだろうとずっとそう考えていたからに他ならない。
兄貴は自分が苦しくても、多少のことなら笑ってみせる。
あの無道とかいうおっさんとやりあったときも、多少どころじゃなく疲労困憊だったはずなのに笑っていた。
…あいつに頼まれ事をされたのも、あのときくらいしか思いつかない。
夜行。裏会。
その異能者の集まりの中でも、兄貴は最年少の幹部。
その重圧がどれほどのものかはわからない。
だけど、兄貴の部下だという人たちは、皆兄貴のことを慕っている。
志々尾も、影宮も、俺が会った人たちは皆。
兄貴なんかよりよっぽどよく出来る人みたいな刃鳥さんまで、兄貴のことを褒めていた。
…あんなに駄目な兄貴なのに。
…あんなに胡散臭い笑い方をする兄貴なのに。
兄貴が家を出てからは、あまり会話を交わすこともなくなっていった。
兄貴と顔を合わせている時でさえ何処となくぎこちなさを感じて、俺は一人いたたまれなくなってくる。
たまにふらりと家に寄っては、飯を食って寝て、それだけだ。
俺が朝起きたときにはもう姿など見えないことだってしばしばあった。
…もっとゆっくりしていけばいいのに。
…父さんも利守も、その方が喜ぶのに。
なのに、どうして長居をしないのか。
…そんなのとうにわかっている。
…兄貴はきっと、俺の顔を見たくないのだ…。
だから、自分からは兄貴に近寄らないように気をつけた。
どうせ兄貴なんて、俺がいてもいなくてもうまいことやるに違いない。
そう思い込もうとした。
…あの日。
烏森が襲われた日。
俺が傍についていながら、志々尾をみすみす死なせてしまった…。
俺はただ、志々尾の息が絶えていくのを見ていることしか出来なかった。
…俺のせいだ。
…俺のせいだ。
他の誰が責めなくても、俺にはそれがわかっていた。
…だけど、兄貴は自分自身を責めていた。
一度だって俺のことを責めたりなんかしなかった。
むしろ俺の方が兄貴を責めた。
「…遅ぇよ…遅ぇよ…!!」
そう言って、泣きながら兄貴を責めたてた。
自分自身の力不足も認識不足も傲慢さも何もかもを棚に上げて、兄貴だけを責めたてた。
そうして誰でもいいから志々尾の死を誰かのせいにしたかった。
ただそこに兄貴がいたから。
昔からずっと、俺が困っていると兄貴が助けてくれると信じていたから。
たったそれだけのことで、俺は兄貴を責めながら兄貴にすがった。
兄貴さえいたら、あんな奴なんかに好き勝手させなかった。
兄貴さえいたら、志々尾は絶対に死ななくてすんでいたはずだ。
自分の無知も無能もわかっていた。
俺こそが烏森の正当な番人だったのだ。
兄貴には、夜行頭領としての仕事が他にあることもわかっていた。
…兄貴にもきっとそのことは分かっていたのだろうとそう思う。
俺が自分を責めていることも、苦しんでいることも知っていて、それでも俺になじられてくれていた。
…俺が落ち着くまで、俺の思いをぶつけさせてくれていたのだ…。
それで俺はようやく、黒芒楼をぶっ潰すという決意を固めることができた。
自分が納得したいだけ。
そう言われ、何をどうすればいいかを考えあぐねていた俺に、道を示してくれたのもまた兄貴だった。
「…もう…助けてやらないからな…」
烏森への初陣の時、確かに笑いながらそんなことを言われた。
…だけど結局、いつだって俺は兄貴の気配を背中に感じていた。
なにかのときには兄貴がきっと助けに来てくれる。
あれだけ胡散臭いと思っている兄貴だけれど、何故だかそれだけは信じていた。
結局俺はいつだって、こうして兄貴に助けてもらうことでなんとかやっていけているのだと思う。
もう悔しいとか情けないとかそんなものを超越しているくらい、俺は兄貴の存在を感じ続けていた。
それだけでなんだか俺は安心して突っ走って行ける。
兄貴がいてくれるという、ただそれだけで。
夜行の連中とつるむようになってから、俺の知らなかった兄貴の姿がどんどん見えてきた。
頭領として、あれだけの異能者の集団である大所帯を支えている。
裏会最年少幹部として、責任のある地位についている。
それなのに、部下の一人一人のことまで気遣っていて信頼されている。
難しいことだってあっただろうに。
年の若いこと、経験が浅いことで苦労したことだってあっただろうに。
…兄貴の信頼にこたえるために、志々尾だって、烏森を守ろうとあれだけ戦ってくれていたのだ…。
その志々尾の葬儀に参列させてもらうことが出来なかったあのときでさえ、兄貴はそれでも自身の苦汁を押し隠し、大人の対応をしていた…。
あれだけの激務をこなしながら、それでも他者への気遣いと配慮を忘れない。
俺みたいに、後先考えず突っ走って行ったりしない。
そのくせ、危ないところは全部自分で引き受けたがる。
そんなところはやっぱり、絶対にあいつは俺よりバカなんだとそう思う。
誰にも何も知らせずに。
心配させないように。
…俺にさえ、頼ることもなく。
六郎に、お前の存在が日陰者を生むのだと言われて心にとげが刺さった気がした。
お前のせいで母親も兄も家を出たのだと言われたとき、言い返せなかった。
だけど、だからといって、兄貴だけが俺の知らないところでなにもかもを背負っていくことだけは我慢できなかった。
俺のせいで、兄貴だけが一人、裏で危ない事や汚いことをすることが耐えられなかった。
どうしてかといわれたら、うまく言葉には出来ない。
俺たちは兄弟なんだからとか、今まで兄貴に助けられてきた分の借りを何一つ返せていないのが心苦しいとか、言いたいことはたくさんあったけど、どれも本質を言い表せていないような気がしていた。
結局俺は、あの頃からあまり成長できていないのかもしれない。
兄貴の机に「バカあにき」なんて落書きをしたあの時から、ずっと俺はこの背中を兄貴に支えられて生きてきたのだ。
それは守ってもらうとか庇ってもらうとかそんなものともまた違う。
ただ、俺の背中を預けられる存在として、兄貴の息遣いをずっと感じてきていたのだ…。
俺もそうなれたらいいのに。
兄貴にとって、俺が兄貴の背中を預けられる存在になれたら、そうなったら本当にいいのに。
互いに互いの背中を合わせてともに戦う。
一緒に。これからはずっと。
こんな気持ちをうまく言葉に言い表せない。
どう言葉を紡げば、俺のこの気持ちが兄貴に伝わるのかはわからない。
でも、俺が何も言わなくても、なんとなく兄貴はもう知っているんじゃないかと思うのだ。
俺が何を考えているかをちゃんと知っていて、それでああして笑っているんじゃないかと思うのだ。
それが俺の一方的な勘違いだとは思わない。
ぎゅっとかたく右手を握る。
何故だか頬が緩んでいく。
歩いて行こう、一歩ずつ。
少しでも兄貴にとって頼れる弟になれるために。
兄貴が困ったことになったとき、すぐに俺の顔を思い出せるように。
俺だってもう、あの頃のような子どもではない。
そのことを、兄貴にも知らしめてやるために…。
すっくと立ち上がる。
和菓子はあまり得意じゃないけど、兄貴の好きな饅頭でも作って夜行に差し入れに行こう。
今のこの穏やかで平和な時間。
もしかしたら、束の間の平和かもしれない貴重な時間。
…それをこれから、兄貴と二人で堪能するために…。
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