「結界師」拍手お礼
□雨宿り
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にわかに、空一面に黒雲が広がり始める。
驚く間もなく、耳をつんざくような、ドォンッ!という雷の落ちる音がした。
その衝撃を待ち望んでいたかのように、地面を叩きつけるような大粒の雨が、いっせいに一帯へと降り注ぎはじめる。
「…兄さん、とりあえず雨宿りしよう…!」
隣で飛んでいた兄さんの手を引いて急降下する。
放っておいたら、この人はずぶ濡れのまま飛び続けかねない。
「…あそこ…!洞穴みたいになってる!」
崖の下に、抉れたような暗い穴を見つけて飛びよっていく。
「…小さいな。俺はあの辺の木の下にでもいるから、お前だけ入ってろ」
…確かに、奥行きもあまりない、小さな洞穴ではあるけれど。
「じゃあ兄さんがここに入って。俺があっちの木の下に行く」
「いいからお前はここに入ってろ。雷が鳴ってるんだからあっちには行くな」
…!
本当にこの人は…!
小さな手をぐいっと引き寄せる。
そのまま、腕の中にくるみこむ。
そして。
その小さな洞穴の中に、小さな兄さんの躰を膝に抱えあげた状態で潜り込む。
「…放せっ!」
「この体勢じゃないと、ここに二人は無理だよ?」
「狭いだろ…!」
「じゃあ、兄さん一人でここを使って?」
「…七郎…!」
喚き暴れる小さな躰を抱きしめる。
「あんまり、駄々をこねないで…?その話が片付く頃には、二人でずぶ濡れになっちゃってると思うよ?」
ぎゅ、と…。
小さくて、温かな。
兄さんの躰を、胸の中で抱きしめる。
「あなたが一人でここを使うか…。こうして、二人でここを使うか…」
耳元に唇を寄せて囁く。
「どちらか…ひとつ」
兄さんの抵抗がやむのを見てとってから。
着ていたコートの裾を広げて、兄さんの躰を包み込む。
「濡れちゃってるから…風邪を引かないように、ね…」
「俺が濡れてるんだからやめろ」
「何故?」
「…お前…コートの中は濡れてないだろ…」
「…うん…?」
「せっかくコートを着ていたのに…そんなことをしたらお前まで濡れるだろ」
そんな可愛いことを言われて。
…俺が、兄さんを解放するわけがない。
「俺は、こうしてる方が温かいから」
「そんなわけないだろ」
「兄さんの体温で温まれるから。…ここにいる間、兄さん俺の湯たんぽ代わりになって?」
そう言って、兄さんに微笑む。
…ち、というかすかな舌打ちは聞こえてきたものの。
おとなしく、俺の胸に抱き込まれるに任せてくれている。
俺がいったんこうと決めたら。
…結構強情っぱりなんだって、兄さんは熟知している。
…ざわざわと降り続ける雨の音を聞きながら。
抱きしめた兄さんの躰に頬を寄せる。
兄さんは相変わらず静かなままで、俺の方を見てさえいない。
俺から話しかけなければ、用もなく兄さんから話しかけてくれるようなこともない…。
「…俺が上に行って…雨雲を押しのけてこようか…?」
兄さんに問いかけるようにそう囁く。
「やめておけ…。その必要があるときならともかく」
紅い瞳が、まっすぐに俺の眼を射抜く。
「天候はあまりいじるな。何処に影響が出るかわからないようなことを、そんなふうに簡単に考えるな…」
それだけ言って…また、兄さんが黙り込む。
降りしきる雨の音だけが、周囲から静寂を奪っていく。
普段なら…俺の方から、もっと色々兄さんに話しかけているところなのだろうけれど。
今はこの、静寂を破る雨の音がただひたすらに心地いい…。
兄さんの躰を抱きしめたまま、大きく息を吸い込んでいく。
…兄さんのうなじから…ほんわりとした雨のにおいがたちのぼってくる…。
体温で温まった、その雨のにおい…。
兄さんを抱き込む腕に、わずかに力を込めていく。
…眠っているわけではないようだけど。
腕の中の兄さんは、どこか…ぼぅ…、としていて。
珍しくぼんやりとした、その様子が気にかかる。
…こっそり様子をうかがう。
腕の中の兄さんは、俺の肩越しに…洞穴の外の様子を眺めているようだった。
一面を霞ませる水飛沫。
こうしてここに籠っていてさえ、ともすれば跳ね返りの水滴が入り込んできそうなほどに。
その様子をぼぅっと見ている兄さんを、俺はずっと見つめ続ける。
こんなにもおとなしく、俺の胸の中に兄さんが抱き込まれてくれている。
俺の膝の上で。
紅い瞳を僅かにあけて、ぽかんと口を可愛くあけて。
外の様子を…飽きることなく眺めている。
…このまま、時間なんてとまってしまえばいいのに。
ただただ、兄さんの温かな躰をこうしてずっと抱きしめて。
ずっとずっと…このままで…。二人きりで…。
そう思う心と同時に。
…早く…雨がやめばいいのにと、願い続ける。
このままでは…濡れた兄さんが風邪を引いてしまう…。
…家に帰って。
早く、温かな風呂に入って貰いたい…。
いつまでもここでこうしていたい…そう願う心と。
早く雨がやんでくれなければ…、兄さんが濡れたままになってしまう…。
そう、はやる気持ちと。
…相反する、二つの感情がせめぎあう。
見つめる先で降り続けている雨音は、ゆるむ気配もみせない…。
「…小降りになった…」
「え…?」
兄さんが、軽く俺の肩を押す。
「今のうちに、帰れば」
「…まだ…結構降ってるよ…?」
地面を穿つような、その大粒の雫。
…小降りになったとは、到底思えない。
「このままここにいても、この雨はやみそうにない。暗くなっていくだけだ」
「…でも…」
これだけの雨。
俺はともかく。…確実に、兄さんがずぶ濡れになってしまう…。
「…雷の音ももうやんだ。明るいうちに家に帰ろう」
「…兄さんが濡れちゃうよ…。せめて、このコートを上に着て…」
「構わねぇよ。…帰ってすぐ風呂に入れば、それで温まる」
頑固な気配を濃厚に浮かべて。
紅い瞳が俺を見上げる。
「…帰ったら、お前もすぐ風呂に直行しろ」
「駄目だよ…!兄さんが先に入って…!」
こんなに…今の時点ですでにぐっしょりと、着物も濡れているというのに。
「帰ったら一緒に入ればいいだろ。どうせ二人ともずぶ濡れになるんだ」
「兄さんと…二人で…?」
「あれだけ広い風呂なんだから、それで構わないだろ」
「…もちろん、俺は構わないよ」
圧し殺したような声が出る。
「…なら、行くぞ。また雷が鳴り始める前に、家に帰らねぇとな」
するりと、兄さんが俺の膝から滑りおりていく。
「…ほら、行くぞ…」
雨の中で…俺に向かって手を差し出してそう促す。
その手を掴む。
…すかさず、払い除けられる。
「…何やってんだよ。飛びにくいだろ」
いつもの…憮然としたような、兄さんのその顔。
「…行くぞっ」
たすん、と軽く地を蹴る兄さんの背中を追いかけて宙に浮かぶ。
時折兄さんが振りかえっては。
きちんと俺がついてきているかを、確認している。
…子どもの頃に戻ったような、その視界いっぱいに広がる兄さんの背中を見つめる。
…じんわりと胸が熱くなる。
俺にとっては、とても懐かしい記憶の中のその憧憬。…その光景と、まったく同じこの景色。
その同じ景色を…今また俺は、兄さんと一緒に。
一路、雨の中を…兄さんと俺の家を目指して…。
兄さんと一緒に、飛んでいく…。