The mermaid of deep sea
□0.プロローグ
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”――水は生きる為に必要な物質。
化学式 H2O で表される水素と酸素の化合物で、例えば生物体の7〜8割を水が占めているように、生命に必要不可欠な存在。
日本で言えば、至極ありふれた物質。
それに身体を浸して行う競技が「水泳」。
どうやら、自分は水に合う体質らしい。
自分が水中で動けば、水は意のままに動く。
人々はそれを、「才能」と呼び、羨ましがり、追いかける。
でも、追いつかせて、たまるものか。
水泳で負けたことは無い。
速くて当然。勝って当然。
否、速くあらねばならない。勝たなければならない。
大切なのは、勝利すること、速いこと。
水を用いて、自己主張すること。それだけだ”
ふと、思い返す。
あの頃の自分は、なんて勿体無い事をしていたんだろう、と。
”――水は生きている。
一度飛び込めば、そいつはたちまち牙をむき襲い掛かってくる。
だけど、怖れることは無い。
水に抗わず、水面に指先を突き立て、切れ目を作り出す。
その切れ目に身体をすべり込ませていく。
腕を、頭を、胸を――。
「フリーしか泳がない」
タイムも、勝ち負けも、どうでもいい。
大事なのは、水を感じること。
肌で、目で、心で、そして感じたものを疑わないこと。
自分を信じること。
水に抗うのではなく、受け入れる。
互いの存在を、認め合う。”
独自の水に対する理念を以って、自分に欠けているものを気付かせてくれたのは、他でもない。
水=恋人と言っても過言ではない、あの男。
彼も競泳をしていないと聞いたときは、私は、思わず苦笑いしてしまった。
そして、それでも今なお水から離れられないことを知り、声に出して笑ってしまった。
――お前もか、と。
もし、泳ぐ彼に出会っていなかったら、自分は今なお、水に対して特別な感情を抱くこともないまま、競泳を続けていたのではないか、と思う。
もしかしたら、どこかで心折れて、水を離れてさえいたかもしれない。
この美しい世界にも、出会っていなかったかもしれない。
そう考えると、複雑な気持ちになる。
ただ思い返したところで、過去の事は過去の事だ。
競泳は、止めた。
今更、どうする術もない。
でも私は今、水に触れている。
水に身を任せ、海を自在に泳ぎ回っている。
美しく輝く水面を見上げて、全身で泳ぐ喜びを感じている。
もしかしたら自分は、プールより、自然の海の方が性に合っていたのではないだろうか。
きっとそうだ。
あの頃の自分では、決して感じられなかったであろう、この、悦びを。
私は今、全身で噛み締めよう。
過去の分も含めて、全霊をかけて。