The mermaid of deep sea

□0.プロローグ
1ページ/5ページ

”――水は生きる為に必要な物質。

化学式 H2O で表される水素と酸素の化合物で、例えば生物体の7〜8割を水が占めているように、生命に必要不可欠な存在。


日本で言えば、至極ありふれた物質。


それに身体を浸して行う競技が「水泳」。



どうやら、自分は水に合う体質らしい。


自分が水中で動けば、水は意のままに動く。

人々はそれを、「才能」と呼び、羨ましがり、追いかける。

でも、追いつかせて、たまるものか。



水泳で負けたことは無い。


速くて当然。勝って当然。

否、速くあらねばならない。勝たなければならない。





大切なのは、勝利すること、速いこと。


水を用いて、自己主張すること。それだけだ”






ふと、思い返す。


あの頃の自分は、なんて勿体無い事をしていたんだろう、と。




”――水は生きている。


一度飛び込めば、そいつはたちまち牙をむき襲い掛かってくる。


だけど、怖れることは無い。

水に抗わず、水面に指先を突き立て、切れ目を作り出す。


その切れ目に身体をすべり込ませていく。


腕を、頭を、胸を――。





「フリーしか泳がない」





タイムも、勝ち負けも、どうでもいい。

大事なのは、水を感じること。


肌で、目で、心で、そして感じたものを疑わないこと。


自分を信じること。


水に抗うのではなく、受け入れる。


互いの存在を、認め合う。”





独自の水に対する理念を以って、自分に欠けているものを気付かせてくれたのは、他でもない。

水=恋人と言っても過言ではない、あの男。


彼も競泳をしていないと聞いたときは、私は、思わず苦笑いしてしまった。


そして、それでも今なお水から離れられないことを知り、声に出して笑ってしまった。


――お前もか、と。




もし、泳ぐ彼に出会っていなかったら、自分は今なお、水に対して特別な感情を抱くこともないまま、競泳を続けていたのではないか、と思う。

もしかしたら、どこかで心折れて、水を離れてさえいたかもしれない。


この美しい世界にも、出会っていなかったかもしれない。


そう考えると、複雑な気持ちになる。



ただ思い返したところで、過去の事は過去の事だ。

競泳は、止めた。


今更、どうする術もない。




でも私は今、水に触れている。


水に身を任せ、海を自在に泳ぎ回っている。


美しく輝く水面を見上げて、全身で泳ぐ喜びを感じている。



もしかしたら自分は、プールより、自然の海の方が性に合っていたのではないだろうか。


きっとそうだ。


あの頃の自分では、決して感じられなかったであろう、この、悦びを。


私は今、全身で噛み締めよう。

過去の分も含めて、全霊をかけて。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ