The mermaid of deep sea
□1.はじまり
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幼馴染が、突然風呂場の窓からサバと共に現れ、同居すると言いだしてから、もうすぐ24時間が経過する。
あの後、玄関を開けるなり、名前にサバだヒトデだダイビングの道具だと、やたら物を家の中に運び込まれ、遙は学校どころでは無くなってしまった。
もともと休もうと思っていたし、丁度いい理由になったな、とは思った。
でも、そもそも休もうと思ったのは、もう少し水に浸かって居たかったからだ。
間違っても、何か知らないが越してきた彼女の手伝いを、しようと思ったわけではない――遙は戸惑ったまま、彼女が着々と何も言わずに自宅に住みつく準備をするのを、傍観するしかなかった。
いきなり同居なんて意味が分からない。
受け入れ準備なんてものも全く整っていないし、何をどうしろというんだ。遙は、昨日何回溜息をついたか、自分でもわからない。
しかしどういうわけか、遙と名前の同居は、遙の両親も認めたことだったらしい。
――そんなことは聞いていない、遙は頭を押さえる。
しかも。
岩鳶高校に編入までしてくる、という。
――唐突過ぎて本当に意味が分からない、遙はまた頭を押さえた。
二人はその後、なんやかんやで遅れた朝食兼昼食にサバを美味しく頂き、家の案内として家中を歩き周り、同居のルールをなんとなく決め――ドタバタ過ごして一日を終えた。
言及すると遙が、名前に尽く引っ張りまわされたといったところか。
今朝といえば、起きるなり遙は、早朝から起きていたらしい名前が、パジャマ姿で仏壇の横にしまってあった水泳のトロフィーを、ご丁寧にあちこちに飾ろうとしているのを発見した。
遙はそれを急いで阻止し、名前と祖母の写真の前に線香を三本――自分、名前、両親の分だ――立て、すぐさま水風呂に飛び込んで、今に至る。
もう疲れた。名前は今頃、制服でも着て、家を出て学校に向かっている頃だろうか。なるべくそうであって欲しい。遙はぼんやりと想像しながら、潜水していた。
それにしても、と遙はため息をつく。
あの頃から、名前はあまりにも変わっていない。それどころか、ますます……。
元をたどれば、彼女を変えてしまったのは、他でもない自分なのだ、と。遙はわかっていた。
あの頃の名前は、水に対して恐ろしく冷たかった。水への想いに気付いていなかった。
それに気付かせたのは、他でもない自分。知っている。
だけど、何かが間違っている気がする――、でも何が。
いや、本当に何かが間違っているのだろうか。そうだ。気のせいだ。
本当に。
「名前は今、純粋に水を楽しんでる。何も間違ってない」
遙は、もやもやした不快感を払拭するべく、自分に言い聞かせるように呟いた。
両手で水を掬い、バシャッ、と顔にかける。
「水があって、それで満足――。何難しいこと考えてんだ、俺は……」
遙は、また、ため息をついた。そして、俯き、瞼をゆっくりと下ろす。
目を閉じれば、何故か自然と、何時の日か、スイミングスクールで泳いでいた頃が思い起こされた。
「あの頃は、小難しいこと考えたっけ。俺も、名前も」
ぼそっと独言し、顔をあげると水中から右腕を持ち上げる。
けれど持ち上げられた手は、あの頃の様に水と重なり合うこともないまま、虚しく宙を切る。
――死んだばあちゃんから聞いた古いことわざ、十で神童、十五で天才、二十歳過ぎればただの人。
例えば名前なんて、ただの人街道を驀進中だ。
「只の人まであと三年ちょっと……」
遙はどことなく明るい浴室を見上げ、息を吸い込みながら静かに水中に頭を沈めた。
浴槽の底に背中と後頭部を付け、ぼんやりと揺れ動く水面を見上げる。
(あ〜、早く只の人になりてぇ……)
開けっ放しだった窓から入り込んできたのだろうか、間違ってもサバではない、薄く色づいた桜の花びらがひらひらと水面に舞い落ちた。
小さく、波紋が広がった。