The mermaid of deep sea

□3.はじまりV
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――これは、恐怖。

怖い?

何が怖い? 何故これほどまでに怖いのだろう?




名前は、酷く混乱した状態で、手すりに寄りかかるようにして、ガクッと腰をその場に落した。

ポニーテールにした藍色の髪を垂らし、頭を伏せる。





次々と、主に自分と、遙たちと、水泳と、に関する疑問が浮かんできては、広がり、浮かんで、を繰り返す。


(割り切って、ここへきたはずなのに……。私、駄目だな、本当に)


五里霧中、ぐるぐると考えて、考える。


(それに、自由自由言っているけど、自分は、結局過去にがんじがらめで、実は、全然自由じゃないのかもしれない)


一度気分が落ちれば、あとは早い。


制服越しに右と下から伝わってくる、冷たいコンクリートの感触。もやもやしてよくわからなかったが、自分の心も、それぐらいに冷え切っているような気がした。


遠く聞こえる元気な声も――恐らく渚を筆頭とした生徒たちのものだ――、全てどこか遠い世界のものであるように思えてくる。

暗がりがむしろ心地よくさえ思えて、どうとでもなれ、そんな気さえ起こり始める。

虚無感と脱力に襲われて、立ち上がる気力等どこにもなかった。





だから、


「おい、何してる」


という遙の声がなかったら、名前がその場を動くのはもっと後になっていたかもしれない。









階段に腰掛けて、長い前髪と手で隠しでもするかのように、貌を伏せ、蹲った名前を見つけた時、遙は微かに瞠目した。

遅い、そう思って戻ってみれば、独り、座り込んでいるではないか。


しかも、どこかで見た事のある光景だ。


「おい、何してる」


たいして考えず、踊り場で立ち止まったまま、遙は咄嗟に名前に言葉をかけた。

声はいつものソレより若干低く、口調もきつい。

それを聞いて、遙自身は初めて、何故かは理解できなかったが自分が少しイラついていることに気が付いた。




「おい、名前、聞いてるのか。どうした」


また暫く静寂を流した後、遙は返答はおろか微動だにしない名前に歩み寄りながら、再び声をかけた。

今度は、最初より幾分か優しい口調だ。そうなるように自身でも気を付けたつもりだった。


名前が、例えば俗にいうガラス細工のような、そんな壊れやすいものの様に見えたから。

彼女をそこに止めているそれが、話せる悩みなら聞こうと思ったし、もし彼女が今泣きたい気分だったのなら、肩でも貸そう、なんて思った。



「遙……」

だが、自分の声にビクッと震えた肩を、ゆっくりと上げられた先で流れた怯えた空虚な目を見たとき遙は、咄嗟に逃げるように地面に視線を落してしまった。


――名前は、迷っている。何に? いつから?
  

今の話の流れでこれだ、彼女が過去や、競泳のことを考えていない方がおかしいと思う。

考えなくたって、遙は知っていた。


昔の自分が過ごしていた時間の面影が残る学び屋に、行くことさえ、彼女は恐れているのだと。



それが意味するところ、自由だ、楽しさだ、と言って奔放に振舞っているように見えるが、実際名前は未だに自分と競泳との関係について、割り切れていない。

自由に見えて、決して自由ではない。


がんじがらめで、もがいているのだ、と。



一方で、彼女はそうして割り切ってしまうこともできたろうに、こうして自分や真琴たちのもとへ戻ってきた。

それが、今を変えたいと思った故なのか、それとも、逃げ続ける苦痛に耐えかねて、逃げることから逃げ出したかっただけなのか、それははっきりしない。


でもそこに、変わりたいという想いが見え隠れしているのは明確だろう、察しはついていた。


なのに、彼女が今そうして、そこで自分から視線を逸らしているのは、求める何かと、過去や競泳への恐怖の間に板挟みになっているから。









(もし、それが、名前が苦しんでいるのが――俺の、せいだとしたら?)


ここからはただの個人的推測だ。だが自分が、彼女を変えた結果が、今なのだとしたら。


以前からずっと、引っかかっていたことが、遙の胸をぎゅっと締め付ける。



遙は、暗い影が落ちる自身の足先をじっと見つめながら、身体の脇で拳をぐっと握りしめた。




そう思うと、優しい言葉も、励ましの言葉も、導きの言葉も、遙は名前にかけることができなかった。




名前のわからない正解を、自分がわかるはずもない。


結局、わけもわからないまま、取り敢えず動くしかないのかもしれない。取り敢えず動いて、未来に進むしかないのかも。



数拍の間を置いて、遙はなるべく音を立てない様に階段をのぼり、名前の前で立ちどまると、そっと彼女の貌の前に手を差し出した。




「行くぞ、名前」


「……、……」


静かに向けられた遙の視線を感じて、名前は眉間に皺を寄せると左手の下にあったスカートをギュッと握りしめた。


腕が、あがらない。





「――行こう」 


だから、遙がそう言って身を屈め、自らの左手を酷く優しく掴んでくれたのは、名前にとって本当に救いだった。

彼の大きな右手に全身の力をゆだね、名前はのそっとその場から腰を上げる。


「足元、気を付けろ」

「……」


遙の心遣いにこくり、と頷きながら、名前は遙の手に導かれるがままに、一段、一段とまた階段をくだった。


ひんやりとした重い空気の中、重なりあう二つの足音が通り過ぎていく。




「何も見なかったことに、して」

ふと、名前が消えそうな声で言った。


それに対して、遙は先程からずっと変わらない伏せられた目をしたまま、小さく頷く。


名前の手を握る自分の手に、力がこもっていたことには、遙は気が付かなかった。



それからというもの、教室に戻るまで、二人は一言も口から発しなかった。









(『俺がついてるから』なんて台詞は、俺には言えない)








「あれ、二人とも遅かったね。……、詮索はしないけど、名前、無理に着くい笑いなんてしなくていいよ、俺の前なんだし」


(やっぱりお前の察しの良さは普通じゃない)


「読心術……?」
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