庫
□ひやあせ
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今日はやっと家に帰ることが出来そうだ。
三日前から、家に帰っていない日数の新記録を樹立し続けている。
寂しさが積もって体が重い。
正式に帰宅できると決まって、嬉しくてヒロさんにメールを送った。けれど未だに返信がこない。メールを送ったのが三時くらいだったから、忙しかったのだろう。
携帯を見つめていると、婦長さんが「恋人からの電話でも待ってるのかしら。」と俺に珈琲を差し出して隣に座った。
婦長さんは先週に離婚をしたばかりと聞いていたので、あいまいな返事をしておく。離婚の愚痴をこぼす婦長さんを見ていると、何だか自分も不安になってきた。
携帯は鳴らないまま。
まさか、無視されてるなんてことはない・・・はず。ヒロさんは、俺があまりにも家に帰らないからといって怒る人じゃない。むしろ我慢してしまうタイプの人。
夜七時、いよいよ家に帰れることが嬉しくて、次は電話をしてみる。おかしいな、やっぱり出てくれない。
家に帰っても、ヒロさんは居なかった。
真っ暗な部屋に明かりを灯して、ヒロさんの欠片を探す。夜ご飯の準備がしてあった。鍋の中、味噌汁の具は豆腐。
本当はすぐにでも寝てしまいたいけど、ヒロさんに会いたい。絶対にこっちが優先。
我慢出来なくて、先にご飯を食べた。ヒロさんの作る味噌汁はおいしい。
それにしても、遅いなぁ。
九時になってもう一度電話をしてみた。
「あっ、ヒロさん!」
やっと繋がった電話から流れる愛おしい声。いっぱい電話をしたこと、メールをしたことを伝えると申し訳なさそうな声になった。
「今、何処にいるんですか。」
「ああ、実家に帰ってる。」
くらりと目眩がした。
受話器を落としそうになった。
実家って・・・。
一瞬、今日婦長さんに聞かされた離婚話が頭を掠めた。忙しさが原因で別れたと。最後の一言はやっぱり「実家に帰らせていただきます」だったと。
頭が真っ白になった。
−そんな、最悪だ。
「ごめんなさいっ、すいませんでした! ヒロさん、せめて喧嘩してからにしましょう。言いたいことを言い合ってからにしましょう。離婚なんて俺、絶対に嫌です!」
必死に叫んだ後、ヒロさんの返事を待つ。しかし聞こえてくるのはヒロさんの笑い声。どうしてだろう。まさか、怒りがあまりにも大きすぎて笑ってしまっているのだろうか。
「離婚って、お前バカだろ。」
笑い声の中から、絞り出したような言葉。
「俺は母さんに呼ばれただけだぞ。」
もうそこからは耐えられないという風に笑われた。
「りんごもらったから、家で食おう。今から帰るから。」
ヒロさんは、お母さんに呼ばれて実家に帰っていただけだった。今日俺が家に帰る予定じゃなかったから、そのまま泊まっていく気だったらしい。
安心したら、早く会いたくなった。俺のために帰ってきてくれるから、嬉しくなった。
さっき電話をしたばかりなのに、リダイアル。
「ヒロさん、お母さんに『ありがとうございます。』と伝えてください。」
なんて、こじつけみたいな用を作ってすぐにヒロさんの声を聞こうとする。
幸せって、体の何処まで入るんだろう。
溢れてしまいそうなその中で、貪欲に求め続けるこの思い。
それさえも幸せだから、仕方がないけれど。
●おわり●