Tracks That Lead Us


□part 1
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9月。陸上競技のシーズンが始まる。
この夏中、毎朝6時と毎夜9時のランニングの積み重ねで、足下のスニーカーは擦り切れて泥だらけだ。陸上競技場のトラック。この第2の肌のように馴染んでいるスニーカーに、ドンヘはつま先をくぐらせた。

フットボールのシーズンは終わり、今は7時からの朝練もない。緑のフィールドの芝生に点在していた剥げた部分や歩道の景観を損ねていたチョークのにじんだ痕も、もう消えて無くなった。ドンヘはフットボール選手の俊足ぶりは十分認めているが、本来人間が走る理想的な姿であるとは決して思わない。ゴールがある、あの地平線に辿り着くには相手チームが繰り出す障壁が多すぎる。

あまりに早朝で、トラックにはまだ誰もいない。ほとんどの高校生にとって朝の5時半は願わくばまだ寝ていたい時刻だ。ドンヘは両手のひらをスタートラインに押しつけると左足母指の根元に体重をかけ3,2,1とカウントダウンをして蹴り出した。

地平線はすぐそこにあった。



*



「シーズンの始まりって大嫌いだよ」

「おい始まるぞ。ちょっと黙っててくんない?」

黙れと言われてイェソンは溜息をつくと、ドンヘがまるでこの世の全ての欲求不満の元凶であるかのように彼に向かって荒々しく身振り手振りでまくし立てた。

「だからイヤなんだよ!入団テストとなるとお前は完全にアタマがおかしくなって…マジで殴りたくなる!」

「おかしくなんかなってない」

ドンヘは異議を唱えると、落ち着かない手をスウェットシャツのポケットに滑り込ませた。

「ただ…ちょっと緊張しているだけだよ」

イェソンはドンヘの向こうずねギリギリに野外観覧席を蹴りつけた。激怒してドンヘは金切り声を上げた。

「これだから…。あのな、お前はリーグ最速のランナーだ。けどいつか新入りに抜かれるんじゃないかってビビってやがる。まったくあんのサディスティックなクソ女コーチのせいで毎年入団テストを受けるハメになってるこの俺の事も考えてみろ?ま、俺が平然としてるから、それも気に入らないんだろうけどな」

ドンヘがイェソンを慰めるか嘲笑うかする寸前、ホイッスルが素早く2度鳴り、最初のランナー達の出番が来た。素早くイェソンを押しやり、ドンヘは彼の隣に自分が座るスペースを確保した。イェソンはその頭にげんこつを喰らわせたい衝動に駆られたが、取りあえず今はドンヘが自分の腕を掴んで緊張を解かすがままにさせておいた。

「誰だ、あれ?」

イェソンは一列に並んだ最後のランナーを顎でしゃくった。

「知らないな…」

ドンヘはそう言うと、その肢体にざっと目を走らせた。

ランナーのようには見えない。ふくらはぎは細すぎるし肩幅は大きすぎる。小さい尻に繋がるウエストはやや内側にカーブを描いてくびれている。オフシーズンを体力維持に充てようとしている水泳部員なのかも知れない。ドンヘには彼が脅威の存在とは思えなかった。たとえ獲物を狩るために水中を最速で泳ぐサメだとしても、陸に上がれば窒息死だ。

ホイッスルが再び鳴り、ランナーたちは一斉にスタートラインに片膝をつけた。
ドンヘはトラックに駈け降りていきたい衝動を抑えていた。何故なら、そいつのポジションは何もかも間違っているから。そいつの左足は後ろに下がり過ぎているし、肘は胸は逆の方向に揃ってない。つま先は真っ直ぐ尻に平行に位置してない。 
ドンヘの指がイェソンの肌に食い込んだ。その爪がイェソンの強肩に深く食い込む前に、彼はドンヘの手をピシャリと叩いた。

ホイッスルが再び鳴った。 

それは一秒にも満たないはずなのに、まるで何時間にも感じられる瞬間だ。有望な選手達が一斉に前へ飛び出した。頭部を低くして押さえ込まれて張り詰めたその両肩は、目に見えないシールドを破る時が来ると解き放たれ、つま先を通じて空中に舞うことの自由を味わう。

そいつが最後のカーブを曲がった所でドンヘの脈拍は速まった。猫背だしメチャクチャなフォーム。ホイッスルが鳴ったことさえ気にも留めていないようだ。

つり上がったコーチの眉が、全てを物語っていた。

「クソっ」

イェソンはつぶやくと息を切らしてゴールする残りのランナー達を眺め、既に落ち着きを取り戻し息を整えてそこに立つ我らが期待の星を畏怖と羨望の念で見つめた。そして唖然として座っているドンヘに向き直り、溜息をついた。

「今シーズンこそお前を殴っていいよな?」

0.04秒。

まるまる一秒にも満たない。そいつが自分の記録を僅か1000分の4秒程も縮めたことに、ドンヘは驚きを隠せなかった。

「気にすることないわよドンヘ。我らが陸上部のスターはあなたなんだから」

記録を見たドンヘの表情が途端に歪んだのを見て、コーチが言った。

嘘。

この現実の世界では、一秒なんて何の意味もない。指をパチンと鳴らしている間にその瞬間は消え去る。しかしトラックの上では1000分の1秒が全てなのだ。


夕食の時間、この出来事をドンヘは両親と兄のドンファに話した。控えめな声を装い、出来るだけ何気なく。たとえどうであれお前を誇りに思うよ、と彼の父親は微笑んで言う。彼の母親はドンヘの皿にデザートのおかわりをよそい、ドンファは軽く口笛を吹き、みんなお前に夢中だなとドンヘの肩にパンチを喰わせた。ドンヘがドンファを突っつき、母親はお行儀悪いわよと真顔で厳しくたしなめるが、それは暖かくて居心地の良いものだ。

みんな解っちゃいない。

ドンヘに初めてのランニングシューズを与えたのは彼の父親だった。そして彼をランニングパークに連れて行くのはもっぱらドンファの役割で、ドンヘがひとりで走れる年齢に達するまでは、ドンファはベンチでノートパソコンに向かうか近所の子ども達とサッカーをしたりして時間を潰した。

彼の母親は出来る限りドンヘの出場する試合を応援しに行き、彼が得たメダルをリビングの棚に飾った。

家族全員がドンヘの協力者でありサポーターであり、またファンであった。ドンヘはそんな家族を敬愛し、ありがたく思っている。しかし彼らは決して1000分の1秒の世界やトラックと一体化する感覚を理解することはないだろう。解って欲しいとも思わない。


次の朝、日が昇る前にドンヘは目覚めた。
海の底から引きずり出された太陽の光は、ドンヘがそのスニーカーで思うがままに焼き尽くしたトラックの白線をやがて明るく照らすことだろう。 



*



「ねえ、」

ドンヘは肩越しに振り返り、一瞥すると眉をひそめた。アイツだ。

ドンヘのふくらはぎは熱く、汗が彼の頬を流れ落ちている。この昼休みの時間、ドンヘは誰とも関わりたくなかった。
2年生達は大学入試模擬の勉強をしたり、学食のおばさんが食べ物を投げ合うふざけた遊びを止めさせようとしているその隙に、ミートローフのカビが生えた部分を向こうの席に座っている友達に投げつけたり、あるいはスタジアムの野外観覧席の陰で一時間近くイチャイチャしたりして昼休みを過ごしている。そんな中、ドンヘはたいてい筋トレに時間を費やし、汗でびしょ濡れになっている。 

「ドンヘ…だよね?きみさ、分離微積分学のクラスにいるよね?」

たくし上げたシャツの裾で額を拭いていたドンヘは驚いた。

「ほかの誰かと間違えているんじゃない?俺は三角法を受けてるよ。そんな、大学でも役に立たない分離微積分学なんて」 

「だよね」

彼は口をあんぐり開けてそう言うと、シャツの袖をこめかみに押し当てながらドンヘに微笑んだ。

「その、俺を気にくわない奴だって思い込んでるみたいだから、誤解を解きたくて…」

ドンヘは完全に油断した。

「俺は―、」

ドンヘは異議を唱え始めたが、そいつは口元をひん曲げて信じ難いといった表情で首をかしげている。左手でシャツの裾をねじり、服を引き寄せ、ドンヘは新しいチームメイトをじっと見つめた。

イ・ヒョクチェについてわかったこと。
ヒョクチェはドンヘが今まで気付かなかった水泳部の選手などではなく、昨年の新学期からの転校生だった。お高くとまった雰囲気の金持ち私立高校からの転校生がいるという噂は、こんな小さな町では誰もが知っていた。彼の父親は失業したので今は生活保護を受給している(これはドンヘの勝手な想像だ。 この方が何だかしっくりくる)。

ヒョクチェは姿勢が悪い。
彼は2年生だが、上級生に混じって分離微積分学の授業を受けている。
彼はドンヘより1000分の4秒早く走る。

「ね、分かってるよ。転校生なんかに構いたくないって。特に、いきなりチームの主力メンバーに入る奴なんかね。でも俺はスター選手になりたいわけじゃなくて、ただ走るのが好きなんだ」

一戦交える前に、ヒョクチェが平和条約を結びたいと申し出ている事はドンヘにもわかった。バカじゃなさそうだ。それは分かる。しかしドンヘはただヒョクチェの真後ろに立ち、彼の膝を一蹴りして全ての体重を一方にかけて寄りかかっている姿勢を止めさせて、今までに見たこともないような奇妙な放物線を描いている内股を何とかして治して真っ直ぐに立たせたかった。

「わかったよ」

ドンヘは答えた。一体何に対してわかったのか良く分からなかったが。

「よかった…。 じゃ練習でね!」

ヒョクチェは微笑むと、後ずさりしながらドンヘに小さく手を振った。直後、ヒョクチェはほどけた靴紐を結び直すのに手間取り、ドンヘは吹き出しそうになるのを何とか堪えた。 

「あ、ドンヘ?」

出来るだけ真面目な顔をつくってドンヘは見上げたが、ヒョクチェのニヤニヤ顔がそれを簡単に妨げた。

「ちょっと言っていい? あの子達がイッちゃう前にソレ、しまった方がいいかもよ」

ハッとして、ドンヘはこの時間ずっとシャツをまくり上げたままだった事に気が付いた。真昼の日差しに汗ばんだその腹筋が、わずかに赤く日焼けして美しかった。ドンヘがたくし上げていたシャツを慌てて離すと、失望と安心の入り交じった甲高い溜息が野外観覧席から聞こえた。ドンヘの頬はその腹と同じように赤く染まった。

イ・ヒョクチェについてわかったことがもう一つ。ちょっとイヤミな奴。
自分も同類と言えるが、出来るだけ気を付けているし、これはあくまでヒョクチェの話だ。



*



「俺はお前の親友だし、本当はお前を殴りたいわけじゃないから言うけどな、まずは落ち着けよコノヤロー」

ドンヘは前髪をフッと吹き上げたが、イェソンの脇腹を肘でつつく余分な時間は一瞬たりともない。気が散るだけだ。

「予選レースのご心配をしていただいて申し訳ありませんね」

そう言うとドンヘは足を上げてイェソンの攻撃から身を守った。

一呼吸した後、イェソンはドンへに遅れをとるまいと全速力で走り、1000分の1秒について2つ3つ文句を言うと、ドンへの腕にパンチした。

「お前が予選を心配するなんてありえないだろ?あの進化に取り残されたようなカオの新入りのせいか?」

ドンへはクックッと笑い、イェソンに息をつかせてやるためにその走りを少し緩めた。

日曜日の遅い午後。そういえばヒョクチェと初めて会ったのは今週の火曜日だった。
ドンへは笑うのをやめた。

「ヒョクチェ…」

ドンヘはつぶやいた。
その名は胃酸のようにムカつくわけではないが、頭から離れない。チクチクするわけではないが、妙にしゃくに障る。流血には至らないが、まるで絶え間なく繰り出されるジャブのようだ。

「…でも頭が悪いわけでもないんだよな。例のゲーム中毒のあの1年野郎と同じ分離微積分学の授業を受けている唯一の2年生だし…」

イェソンはつまらなそうに肩をすくめると、両手を空へかざした。今こうして走れることの幸福を神に感謝しているのだとドンヘには分かる。

「そんなもん、大学に入ったらクソの役にも立たないだろうけどな」

ドンヘは微笑んだ。イェソンの痛快な物言いと自分と良く似た思考回路。これだからイェソンとは幼稚園の頃からの親友なのだ。

そろそろひと休みしてもいいだろう。ようやくゴール地点に着くと、イェソンは感謝のあまり地面にキスしそうだった。

「あのさあ」

ストレッチの後、ドンヘは右足を地面に置き、肩を回して左足のわずかな日焼けを観察し、イェソンの肩に腕をまわした。

「お前にマックフルーリーをおごってあげようかなと思ってさ」

「ダブルファッジとM&Mチョコのトッピングで?」

「調子に乗んな」




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