Tracks That Lead Us


□part 2
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土曜日。もう一度、最初から仕切り直しだ。


9月も終わりに近づき、気温は下がり始めていた。
冷たい風が落ち葉を吹き付けている。
ドンヘは地面を蹴り上げながら学校に向かった。
空は晴れ渡り、陽の光が青空に広がり始めている。


今まであまりにも多くの不明瞭な動機と混乱した感情が彼らの間でもつれていた。
ドンヘはこれまでの分はカウントせず、今日こそが彼らのトレーニング・セッションの第一日目と見なすことにした。
とは言え、依然そういった拭い難いわだかまりは心に残っており、それは先日の夜から今日、そして未来に渡って存在していくのだろう。

しかし今、彼らは白紙の状態といえる。aというスタート地点からやり直せるのだ。
考えようによってはもう到着地点 b に着いているのかもしれない。
しかしどちらにしてもドンヘは確かめたかった。

陽の光の中でも、あの闇の中と同じように容易くヒョクチェとともに走れるだろうか?


ヒョクチェはドンヘより先にグラウンドに到着していた。
ドンヘが来る途中、枯れ葉の山に飛び込んで、あたり一面枯れ葉を舞い散らかせたことなどは驚くに当たらないと考えている。
その件についてヒョクチェはストレッチの間、5分間程も文句を言った。
そのお返しにドンヘは、つま先がまるでバレリーナのようだとヒョクチェが怒り出すまでからかった。

しかしふたりの両手がクレイ面に押し付けられ、チョークの粉がその手のひらを掠めると、ジョークや文句は一切出てこなくなった。

ヒョクチェの能力は十分に引き出されていない。 今ならそれが明らかに判る。
何かから逃れるような走り方というわけではないが、ある時点に達すると彼の走りは穏やかに安定していく。

実際、トラックを滑走する彼の脚は出力を全開したようだった。
スタミナについては改善を要するが、それはジムで週2,3時間も鍛えることで解決するだろう。
腕がもっと強靱であったなら、より良いコントロールが可能だ。
もしその脚を更にパワーアップすれば、無理することもなく、スピードに頼ることもなく長距離にも対応出来るだろう。


シュールな感覚だ。
彼らは何度も何度も駆け回り、その脚は自らの感覚で認識した足跡を水平線に印していく。 
ヒョクチェがスピードを上げたり下げたりする度に、ドンヘは‘頑張ろう’‘いやもう駄目だ’という両極端の感情に翻弄され、その心臓はバクバクと彼を痛めつけた。 

しかしそのうちに、こうしてヒョクチェが持ち合わせているものがドンヘの持つものと何一つ変わらないと知ると、ドンヘは失望が入り混じりながらも安堵した。
ただ一つだけ、小さなディテールを除いて。


生まれ持った天性の恩恵。


ドンヘがたとえ何千年もトレーニングを積み、何億光年の光の下でその肌を焦がそうと、ヒョクチェは必ず自分より幾ばくか早く先を行くだろう。


1000分の1秒。


この1000分の1秒こそが全てであり、「最上級」と「上出来」との違いを際立たせるのであった。
ひとみを閉じると、ヒョクチェが今以上の速さで、燃え上がるように急速に自分を追い越していく姿が目に浮かんだ。

グダグダと愚痴を言うより最高の優良株のアスリートを育てる手助けをするのだと考えろ… 
ドンヘはそうやって己のプライドを保とうとした。 


「ケツを真っ直ぐにキープするんだよ。お前のつま先と平行にな。平行にだ。
お前は数学が得意なんじゃなかったのか?平行の意味が分かるか?一列に直線ってことだぞ?」

ヒョクチェは額の汗を手の平で拭うと、さも愉快そうに小さくうめいた。
いっそヒョクチェの体から骨を取り出して、新しい骨格を彼に与えることが一番楽だとドンヘは思った。

「そうだな…。」

どうやら手作業でするのが一番手っ取り早いやり方だとドンヘは溜め息交じりに悟った。
ドンヘはヒョクチェの後ろに立つと、その背中が真っ直ぐになるまでその背中を押した。

ヒョクチェの脚自体がその指示を理解するまで2,3度ケリを入れたりコースアウトしたりした。
そして内側に入り込み過ぎない肘のライン上の正しいポジションを伝えるために、
ドンヘは自分の右手をヒョクチェの腹に当て、左手を背中の尻の上辺りに置いた。

「歩いて。」

「このままで?」

ヒョクチェは疑わしげに聞いた。

「いいから動け。」

ヒョクチェは言われたとおりにした。
50mも歩いたところでヒョクチェは立ち止まった。
彼の体から放たれる熱と汗によって、ドンヘの両手のひらは熱く湿っていた。
ヒョクチェのTシャツで手を拭おうと思ったが、それはほとんど意味のないことだろう。

「うーん。 これって何の効果があるの?」

その質問に、ドンヘは溜息をついた。
するとそれはヒョクチェのうなじにかかり、ドンヘは手の平でヒョクチェの体が震えるのを感じた。
日中、クソ暑い屋外からいきなり冷房の良く効いた部屋へ入ると同じようなことが起こる。
ドンヘは自分にそう言い聞かせた。
どのみちドンヘの手の平はヒョクチェの身体に触れると、まるで電流が走ったかのように感じるのだから。

「今から言うこと、ちょっとやってみて?」

ドンヘは頭に思い描いている様子を何とか言葉で伝えようとした。

「山有り谷有りのトラックにいると想像するんだ。丘を登る度にゴールが見える。
そこには必ずゴールがあるってお前は分かってるんだけど、丘を下るとそれは見えなくなる。 でも、」

ドンヘは言葉を切ると、ヒョクチェの視線を真っ直ぐ前にさせるため、
手をヒョクチェの腹から上に移動させて、アゴを掴んだ。

「頭を上げて体を真っ直ぐに保つんだ。どんなにゴールが遠くたって、ゴールを見失わずに済む。」

ドンヘはヒョクチェから身を離し、その手はためらいがちにヒョクチェの体から離れた。
ヒョクチェがゆっくりうなずくのを見て、ドンヘは自分の言葉が全て理解され、そっくりそのままヒョクチェの骨身に染み込んでいくのが分かった。

これは自分の脚がへこたれそうになる時、その肺が破裂しそうになる時、ドンヘが己を奮い立たせる時に用いる自己啓発法である。
彼は自分の‘とっておき’をヒョクチェに無償で分け与えたのだ。

やり直しがきかない人生において、このことで恐怖感とか取り戻したい思いに駆られるかも知れない…
ドンヘは身構えていたが、実際そんな感情は涌き起こらなかった。 


両足が一時停止しているように固まり、ドンヘはひとり立ち尽くした。
ヒョクチェの目には闘志が灯るのを見て、ドンヘは誇らしい気持ちになった。
彼を最高のアスリートに育て上げた人物として自分は歴史に名を残すかも知れない。

「もう一度やってみろ。」

ドンヘはそう言うと、その手をヒョクチェの体の元の位置に戻した。
ヒョクチェの体はさっきよりも熱かった。


もうヒョクチェに新しい骨格は必要ないだろう。




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