a kingdom of our own


□a kingdom of our own
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ヘンリーのお陰でニューヨーク観光が実現した。
はじめ、ドンヘは気が進まなかった。観光している間、何処にバンを置いておけばいいのだろう?ニューヨークの街なかで駐車場を見つける事がどんなに大変か、ヒョクチェは解っているのだろうか?するとヒョクチェは監視員付きの駐車場にかかる費用が天文学的だと文句を言った。おそらく彼らの最新のアルバムにかかった生産コストを優に超えるだろうと。 

ドンヘの頭はクラクラした。もし誰かに自分たちのバンを盗まれたりしたら、これからどこで寝泊まりしたらいいのだろうか?それから最も重要なことをドンヘは付け加えた。セックスする場所がなくなってしまったらどうしよう?

ヒョクチェはそこで、ニュージャージーのカルロスベーカリー(スイーツで有名な店)に立ち寄ってからペンシルバニアに引き返すという
当初の予定を忘れて踵を返そうとしかかった。そこでドンヘはヘンリーを思い出した。



「本当にありがとう、ヘンリー」

「遠慮しないで、ヒョン!うちには車が一台しかないから、もう一台分の車庫は空いてるんだもの」

ヘンリーは笑顔で手を左右に振った。細かったかつての少年は、今では自信に満ちた大人へと成長を遂げていた。ヘンリーの髪の毛にはまだ白いものは見えないにしろ、長い間使われなかった彼の韓国語は流暢さを失い、それが時間の経過を物語っている。

ヘンリーに笑顔を返し、ヒョクチェは彼の家の周辺を見回した。バラの木が所々に植えられた歩道には自転車が並び、草花の香りがペパロニピザとスパイスの効いたカレーの匂いとともに空気中に漂っている。ヒョクチェの胃はぐうぐう言い出した。ブルックリンは素敵な所だけれど、空腹感を呼び起こす。

ヒョクチェはヘンリーの肩に回した腕を彼の筋肉に押しつけながらブラブラさせた。こうしていると、あの台湾の街中を走る電車の音とともに「你好」や「太完美」の頃が懐かしく思い出される。

「俺たちのヘンリーがこんなに大きくなって…今じゃニューヨークフィルの団員だ!」

ヘンリーは頬をほのかに赤らめ、ドンヘは微笑んだ。月日は過ぎたけれど、ヘンリーは昔のままだ。

「本当に街を案内しなくても大丈夫?どのみちローラと僕は時間が工面できたら子ども達をブロンクス動物園やミッドタウンに連れて行って、その辺をぶらつこうかなって思っていたんだし。」


また、ヘンリーはふたりに客用寝室に滞在するよう強く勧めたが、ドンヘは一瞬ヒョクチェに無言の視線を送り、ヘンリーもその暗黙のメッセージを受け取ったようだった。ヘンリーは最寄りの地下鉄の駅まで送ってくれて、地図を買う場所を教えたり、メトロカードのリフィルの仕方を見せたり、必ずN線に乗るように念を押したりした。


電車に乗って2つ目の駅が過ぎた頃、ドンヘは目の前の停車駅マップを胡散臭そうに見て言った。

「どの駅で降りればいいんだっけ?」

ヒョクチェは溜め息をつくと、ドンヘの手をひっくり返し、ヘンリーがその手のひらに書いてくれたメモを指さした。

「俺たち早速迷子かよ?」

手すりに捕まりながらドンヘは肩をすくめると、つま先で立って電車の揺れに身を任せてバランスをとった。電車がガタガタッと停車してドンヘは転びそうになり、ヒョクチェは必死に笑いを堪えた。ドンヘはヒョクチェを睨み付けると、ヒョクチェの笑い声が車内中に響き渡るまで彼の腹を突っついた。

いまだかつて彼らが自ら注目を引くような事が出来る場所が他にあっただろうか。30代半ばの男ふたりが笑いながらお互いをくすぐり合っているが、誰も気に留めていない。

「迷子になるのも悪くないよね?」 

ドンヘはニヤリとした。


彼らは予定していた駅とは別の駅で間違えて降り、中華街をブラつき、その次にリトル・イタリーへと真っ先に向かった。ドンヘはカフェのウェイターにイタリアンマフィアのアクセントで英語をしゃべろうとし、ヒョクチェは笑いすぎて腹が痛くなった。ドンへの笑顔はヴェニス運河を遊覧している日々をヒョクチェに思い起こさせた。

「あれからもう10年以上経ったなんて信じられないよ。」

ホテルの部屋を2人でチェックし終わるとドンヘはそうつぶやいた。ここにたどり着くのにランチの後から1時間ほどかかったが、出発点からさほど遠くに来たわけではない。

グリニッジビレッジには石畳の遊歩道があり、見渡す限りのれんがの壁にはツタが這い、さほど感動的でもない工場の建物があちこちに散らばっている。ホテルの部屋には小さいレンジと小さい冷蔵庫が備え付けられている。シャワールームは実際のところ、彼らのバンにあるものよりも小ぶりだし、半地下にあるこの部屋からの眺めは歩道の端っこや行き交う人々の靴などだ。それは限りない底辺からの眺めであり、何百万もの言葉で表現された見応えのあるウォールアートで埋め尽くされた歩道がここから見える。 

「食べ過ぎたよ。」

ヒョクチェは文句を言うとベッドにごろりと仰向けに寝転がり、天井を見つめた。

「この次は、俺がカノーリを5つも食べる前に止めてよね。」 

そしてゲップをして腹をさすると、顔をしかめてドンへを見た。

「疲れた…。」

ドンへは笑ってヒョクチェの上に四つんばいになって這い上がると、ベッドのシーツを乱しながらヒョクチェの脚の間に自分の脚を割り込ませた。

「まだ何んにもしていないのに、お前はもう疲れただって?」

「そりゃあそうだよ。もう若くないんだぜ!それにきっともうすぐ太ってくるよ。」

ヒョクチェは悲しげに溜息をつくと、自分の腹を軽く叩いた。

「覚悟は出来てる?」


ドンへは片眉をつり上げた。肥満とヒョクチェを同列に語るなど、彼には有り得ないことだった。

「本気で言ってるんだ。」

ヒョクチェは言い張った。

「昔みたいにハードに稽古してないし、でも食欲は相変わらずだし。」

頭を片手で支えながら寝転んで、ドンへはヒョクチェをじっくりと観察した。10年前と比べると体の線が少し丸みを帯びて、白髪もちらほら見える。

「OK、今日は見逃してあげるよ。」 

ドンへはヒョクチェのウエストをつまんだ。多少の柔軟性は失ってはいるものの、依然ドンへの指先には柔らかい感触だ。ヒョクチェは怒るフリも出来ないほど疲れていた。ドンへはヒョクチェの首元に顔を埋めて息を吸い込むと、その睫毛をヒョクチェの鎖骨の上ではためかせた。

「良い匂いがする…。」

「汗とマリナラソースの匂いだよ。」 

ヒョクチェは苦笑した。ドンへはその言葉を無視してまた息を吸い込んだ。ヒョクチェはタバコとバラの香りがする。壊れた消火栓とか黄色いタクシーのそばで踊っているみたいだ。ここに来てまだ1日も経っていないのに、ヒョクチェは既にニューヨークの街のような匂いを放っていた。

「我が家みたいな匂いだ。」

その肌にどんな香りをまとっていようが、ヒョクチェはいつだってドンへの帰る場所なのだ。ドンへはそう言葉にしたが、ヒョクチェは既に夢うつつで、「どいて…」とモゴモゴ言うと15分後に起こしてくれるようドンヘに頼んだ。ドンへはヒョクチェの横にゴロンと転がった。午後の日差しがベッドの上に浅い光を落としている。昼寝には丁度いい。

かつてニューヨークに恋い焦がれていた彼らを、今はニューヨークが抱きしめている。



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