Tracks That Lead Us


□part 1
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普通の人がどう思うのかドンヘには分からない。

陸上競技の試合はいつも満員だ。
実際、なかには一番奥の観覧席の床にしか座るスペースが無い時などは、ジャケットをクッション代わりに敷いて堅いコンクリートに座るしかない。
退屈だが家に帰りたいほど退屈ってわけでもない生徒達が主な観客だ。
車に乗り合わせて来た選手の親達の手には、常にビデオカメラが装備してある。
申し分のないビジネススーツに身を包んだ親達が、仕事を抜け出してきた罪の意識で携帯にまくし立てている。
3位を取ってもいつも誉めてくれるけれど、実際に1位を取ったのに、それに気が付かず子どもをがっかりさせている罪深い親。
小さい兄弟姉妹たちは競技者のそばを走り、数人の面倒見の良い彼女や彼氏や親友はごちゃ混ぜで、ドンヘにはどう言い表せばいいのか分からない。

観衆の様子は、野球もバスケも皆同じようなものだ。ただひとつの相違点を除けば。


熱狂の欠如。


彼らはハラハラドキドキして爪を噛みながら座っているわけじゃない。
シートの端を強く握り、研ぎ澄まされたタカの様な目で、ストップウオッチのカチカチいう音とゴールまでの距離を一瞬も見逃さないように注目しているわけじゃない。
そういったもの全てを意識していないのだ。


人類は走るために生まれたのは紛れもない真実だ。
それは人間のもつ脚の形からも明らかだ。

それは真っ直ぐに伸びる道において、まるで飛ぶことすら可能に思えるほど空を近くに感じる飛翔感やそれに伴う空への帰属感に現れており、ドンヘの想いや1000分の1秒や勝利などとは何の関わりも無い。


ドンヘは、ここにいる人々が本来在るべき自分の原点の姿を目の当たりにすることが出来るとは思わない。
息も切らさず、何百マイルもの距離を素早く駆け抜けることが唯一の生き抜く方法であったその時代を。

人間の足をひ弱にしたのは車のせいだとドンヘは思う。
(これはドンヘが運転免許取得の試験に2度も落ちたこととは関係無い。)



ドンヘにとって、最初の数レースはゆっくり過ぎていった。
イェソンが400mリレーでヘマもせずに走りきった時には雄叫びをあげたし、相手高校のチームのアンカーが間違ってバトンを観客席に飛ばしてしまい、それが自分達のコーチの額に当たった時には必死に笑いを堪えた。

ドンヘは今まで高跳びや棒高跳びなどのフィールド競技に関心を向けたことは無かったが、それでも相手校の友人のユノには声援を送るし、水をぶっかけ合ったりたりもする。
これは街を隔てた川向こうのオールボーイズアカデミーと自分たちの、親愛を表すいわば儀式のようなもので、ただただ楽しいひとときなのだ。

しかし、楽しいだけのように見えるこの交流試合も、実のところは今シーズン、自分が何に打ち込まなければならないのかをコーチにいやがおうにも知られてしまう、自らの弱点をあぶり出されてしまう皮肉な機会となっている。
影に隠れるこんな意図を考えると、ドンヘはいまいましく思う。


400mハードルの後ドンヘはトイレに行ったが、彼が戻ってきた時には100mレースは終わっていた。
丁度ヒョクチェがゴールして、額の汗をシャツの端で拭いている時だった。
ヒョクチェは満足げに微笑み、ドンヘと目があった時にもニッコリと笑った。


「出番よ、ドンヘ」 

コーチが言った。ドンヘが動きそうも無いように見えたので、コーチはクリップボードでドンヘをつつき、トラックへと押しやった。 

ドンヘは他のランナーと位置についた。 
左足の膝がわずかに胸に触れる。
頭を下げる。その瞬間、ドンヘはまるで走ることを許される名誉のためなら、自分たちを生け贄に捧げても構わないと祭壇に向かってひざまずいている信者のようだと思った。

目を閉じて、ドンヘはベンチで手を合わせて祈っているイェソンの姿を閉め出そうとした。
今この瞬間、一瞬でも時を止めて貰えたら、観客席に戻ってイェソンをぶっ殺せるのに。
…自分がそんな事を考えているなんて、コーチは夢にも思わないだろう。


ホイッスルが鳴った。



その後、優勝メダルを首に掛けたドンヘはデータを書き留めたクリップボードをオフィスに運ぶようコーチに頼まれた。

自分のタイムは200mで19.80。
ヒョクチェは100mで9.77。

ドンヘはその記録を暫く見つめていた。
もし同じ距離を走ったら、どちらが勝つだろうか…?

しかし彼の頭の中は角度やサイン、コサインなどの記号で一杯になり、どうしても答えを導き出すことが出来なかった。
ドンヘは初めて、単純な数学ではなく三角法の授業を取っていて正解だったと思い知った。
何故ならこれで自分は気を紛らわすことが出来て、惨めな事実と向き合わないですむのだから。



*



「な、ミートローフってもっと肉っぽい色してなかったっけ?これ、紫色だぜ?」

「だから俺はここで食べたくないんだ。」

ドンへは鼻先でせせら笑うと、ありがたいことにごく自然な色をしているホウレンソウパイを一口かじった。

イェソンは自分のトレーを押しのけると、ドンヘのフレンチフライをひとつ失敬した。
「まったく別世界の食べ物だよな…。そうだ、お前が食べ物って呼んでるあの毒をくれよ?」

肩をすくめ、ドンヘはバッグの中からプロテインバー掴み取り、イェソンに投げつけた。
それは彼の目に当たり、イェソンは仕返しにミートローフの切れ端をドンヘに投げつけた。
ドンヘはひょいとかわし、ミートローフの切れ端は壁にピシャっと当たり、そのままズリズリと落ちていった。


「で、ありそうもない事も起こり得るんだな。」

ヒョクチェは血管が浮き出るほどしっかりとランチトレイを掴んでそこに立っている。 

こいつ指が長いんだな。ドンヘは考える。
彼はリレーに向いているかも知れない。

「この一年、きみを一度もここで見たことがないよ?」

そうヒョクチェは話を続けるとドンヘの正面の空いている席を指差した。

「座ってもいい?」

ドンヘもイェソンも思いがけないことだった。



どうしてこいつは俺が学食をペストのように避けている事に気づいたのか、ということには触れずにドンヘは肩をすくめた。
かといって、どうしてなのかを考えなかったわけではなく、実のところ、ドンヘはこのランチタイムの間中、ずっとヒョクチェの発言について考えていた。
結局その意味するところや、何故こんな事を自分は考えているのかは解らなかったが。

ヒョクチェは微笑んで自分のランチトレイを置くと、何となく所どころ紫色をしているミートローフにかぶりつき、口を開けたまま平気で喋り始めた。
イェソンは胸くそ悪そうな顔をして様子を見ていたが、ヒョクチェが食中毒をおこしてないとわかると、このミートローフは食べても何とか大丈夫そうだと判断した。

ヒョクチェのミートローフは3分も経たないうちに胃袋に消えた。 
彼の口から溢れ出る言葉や、その言葉を説明しながら激しく振り回される両手を見るうち、こいつは何でも目にも止まらぬ速さだなとドンヘは思い始めた。
お気に入りのバンドの話から始まり、子どもの頃からティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズが大嫌いだったなどと何気なく言っては知らない間にイェソンを傷つけている間にも、ヒョクチェのひとみはパァっと明るく輝いたかと思うと瞬時に燃え尽きたように影を落とすのだった。


「どうもね。」

ランチタイムが終わり始業のベルがなり、生徒たちが各教室へと殺到し始めるとヒョクチェはそう言った。

ドンヘは空のトレーを返却棚へ置くとヒョクチェと並んで学食を出た。
ふたりの数歩後ろでイェソンはまだプンプン怒っている。

「何が?」

ヒョクチェは肩をすくめるとポケットに両手を滑り込ませ、見間違いかも知れないが、ほんのり頬を赤くした。 
ヒョクチェがドンヘの目を全然見ないので、ドンヘはニヤニヤせずにはいられなかった。

「この昼休み、お仲間に入れてくれたからだよ。 転校生っていうのは煙たがられるし、俺は5000人も知り合いがいるミスターフェイスブックじゃないしね。」

ドンヘは不思議な気持ちになった。 
彼には好かれないという感覚が解らなかった。
確かに彼はフットボールの花形クォーターバックではないが、イ・ドンヘの名は学内ではよく知られており、有名人である。
毎週金曜日の夜には必ず何処かのパーティに誘われるし、思い切った告白も気高く断るし、十分堪能したヌード写真の類いは直ぐに廃棄する。
彼のファン達は自分の写真をなんとか彼に見て欲しくて苦労して付け届けているのだから、せめて一度でも目を通すのが礼儀というものだろう。


ヒョクチェはまだみんなから認められていないようだが、ドンヘの態度いかんによっては、一層状況を悪くもしかねない。

「どうってことないよ。」

ドンヘはヒョクチェを追い払うように手を振り、ヒョクチェのひとみが再びきらめくのを見て微笑んでいる自分に気が付いた。


「クソっあいつ…最低なヤツだ。」

ヒョクチェが廊下を曲がって授業に向かうと、イェソンが言った。

いかにあいつが最低野郎なのかイェソンはまくし立てるが、ドンヘは言わせておいた。
ヒョクチェはそんなに悪い奴じゃない、とドンヘは考えていた。



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