Tourlist History


□Tourlist History
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土曜日には朝市がたつ。
ヒョクチェは子どもの頃、陳列台から飛び出しそうな新鮮な魚や香辛料の効いたスープのにおいが混じり合い、値段を叫ぶ露天商人であふれかえる路地を、いつも母親と姉のソラの後ろから小走りでついて行ったものだ。だがアメリカでは、露天商人たちは叫んだりしない。彼らは使い込まれた白いテントの下に並べた手作りの木製テーブルで、のんびりとお客や試食目当ての見物人とおしゃべりをしている。

朝8時前にベッドから這い出たヒョクチェは、バスルームのドアに腰をぶつけた。彼は未だにこの狭い空間に慣れなくて、動く度にいちいちアザを作り、しょっちゅうドンヘのつま先を踏んだり、床に放り投げられたベルトなどにつまずいていた。ヒョクチェはズボンをはきながらドンヘの寝顔を肘でこづいた。するとドンヘはうめき声をあげ、イビキをかいて寝返りをうった。ヒョクチェはちょっとの間ドンヘの顔を見つめていたが、彼の腰に手をのばし、ダブルベッドの出来るだけ真ん中に据えてやろうとした。が、無駄と分かって止めた。どのみちベッドから転がり落ちるのだから。

ヒョクチェはゆっくりとバンのドアを押し開けると、ドアの蝶つがいが立てた不気味な音に身をすくめた。もしかしたら自分の背中に落ちてくるかも知れない、今にも外れそうなドアの前を歩き出すなんて普通じゃないと分かっていたが、仕方がなかった。

ケンタッキー州ルイビルの朝市が、今のところヒョクチェのお気に入りだ。ニューヨークのユニオンスクエアの朝市よりもずっと人も少なく、ヴァーモントで立ち寄った朝市よりもずっと品数が多い。そこはメープルシロップとサイダーでよく知られているが、ヒョクチェは特に惹きつけられなかった。誰がなんと言おうと、人間はパンケーキとホットサイダーだけでは生きていけないのだ。

今は真夏。 
太陽がヒョクチェのうなじに赤いタトゥーをつけた。それは首の周りに来たハエを追い払ったり髪の毛をいじったりするとヒリヒリ痛んだ。

ヒョクチェは食料品を買うとか、50ポンドもの重い荷物をバンまで引きずって戻るのが好き、というわけではない。世界で一番大きいスイカをじっくり見たり、焼きたてのパンを味わいながら、あやふやな英語で地元の生産者とやり取りするといった、ありふれた日常に身を置くことを好んだ。

小ぶりのスイカとドライサーモン、そして英語が自分と同じくらい上手なインド人女性が焼いたナンを抱えてヒョクチェがバンに戻ったのは、ほとんど昼近かった。

「よお…。」

ドンヘはサイドドアの一番下のステップに座ってヒョクチェを出迎えた。そこは彼らの”玄関”であり、道ばたで子ども達が遊ぶのを太陽が沈むまで眺める'ポーチ'でもある。

ドンヘが髪を切ったのはもう数ヶ月も前だ。何マイルも何マイルも照り続けた陽の光は、鎖骨に触れているその髪の毛先を金色に変色させ、そのまぶしい輝きはドンヘの肌を小麦色に変え、彼の口元や目元にシワを刻み込んだ。

ヒョクチェは黄色く汚れた助手席の窓に写った自分の姿をチラリと見た。時々、自分で自分の姿に気づかない時もある。安い散髪屋で髪を切り、陽の光が当たる角度によっては浮かび上がるかつての赤い染料の跡を残しながら、薄暗い光のもとでは常に灰色がかかった黒髪の男。皮膚はいつにも増して青白いが、日焼けしたシミの跡が腕やふくらはぎに点々と付いている。そのひとみには、目まぐるしく閃光して映り過ぎる風景と、そこで暮らす人々の姿がぼんやりと写っていた。

微かに皮肉を含んだ笑いを浮かべながら、ヒョクチェは自分の目に映る男の姿をはっきりと自分自身に確認させながら、こんな物語を編み出した。…ドンヘはモスクワの大聖堂、はたまたサハラ砂漠の真っ只中にひっそりと隠れているオアシスの中で、ヒョクチェを見失う…。

「よお。」

ヒョクチェは答えるとドンヘの横を通ってバンの中に入った。買った物をドサッと置くと、冷蔵庫から水のボトルを掴み出し、それを汗ばんだ眉毛まで逆さに傾けるとドアの枠に寄りかかった。

「起きたばっかり?」

ドンヘは少しの間答えなかった。そして短い葉の茎を指で裂くと、それらを手の平に挟んでねじった。

「そうでもないよ。…なんで先に行ったの?」

水をすすり、ヒョクチェは肩をすくめたが、ドンヘはヒョクチェを見ていなかった。

「寝かせておいてあげた方がいいかと思って。」

頭を後ろにそらしてチラリとヒョクチェを見たドンヘに言った。何故不意にこんなにも身構えた気分になるのかヒョクチェ自身にもわからなかった。朝市にはいつも一緒に行くのに、今朝に限ってどうしてドンヘを起こさなかったのかに関しては、もっとわかりかねた。

ドンヘは手の平を開け、ねじった草を地面にばらばらと落とすとおもむろに立ち上がった。慌てて数歩後ろに下がり、ヒョクチェは食事テーブルとして使用しているダイナースタイルのカウンターの端に背中をぶつけた。

ドンヘはヒョクチェが調達した翌週分の食料を両手一杯に抱えると、まず好物の冷えたサーモンサンドのためにサーモンを冷蔵庫に入れ、ナンをいくつかに切り分け、残り半分を冷凍庫に入れた。この狭いキッチンでも、彼の動きはなめらかで全く無駄がない。そしてナイフを取り出すとスイカを切り分けた。半分もあれば昼食には十分だろう。

ヒョクチェのゴメンね、の囁きとドンヘの汗ばんだ顎に与えられたキスは、ドンヘがヒョクチェをベッドに押し倒し短パンのボタンを外し、汗で張り付いた服を剥ぎ取るには十分過ぎるイリュージョンだった。ドンヘはヒョクチェの腰についた青アザに口づけると、その舌と指先で何度となく彼の骨張った皮膚をなぞった。ドンヘの髪に指を絡ませて、体が沈んでしまうこのベッドの不満を今は一言も口にしない事で、ヒョクチェはドンへの感情を煽った。

ヒョクチェの口からこぼれ出る音のひとつひとつは至って単調でそれゆえに生々しくドンヘの胃の中に残っている甘ったるい朝食の残骸よりも更に甘く響いていた。

数時間の後、ヒョクチェの腰のアザはもう消えていた。しかし太ももと腰についた緑色の指の跡を洗い落とすことになった。



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