主人公について

□主人公について
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劇場版を見て以来、冒頭の映画が、CBの仮想裁判だったらと未だに考えます。


たとえ架空でも、彼らが自らの罪を明らかにする場所に立たされ、彼らのテロ行為によって人生を変えられた人々の証言を肉声で聞き、訴追側・弁護側の質問にどう応えるのかが見たかった。


例えばスメラギは、無差別報復テロが起きることを予測しながら武力介入を続けたことを、裁判に不利になるからと最後まで黙秘するのだろうか? それとも(弁護側の意向を無視してでも)、自分のしたことを全て話すのだろうか。


ニールが生きていたら、自分のしたことや、その動機は包み隠さず話しただろう。けれど仲間のことまでは言わなかったのではないか。


そしてアレルヤは、超人機関の子供たちについて何と言うのか。そんなことを考えていました。


主人公とそれに準ずる人物は、物語の中で最も重く、苛酷なものを最後まで負うべきだと思っています。


戦争根絶を掲げて主人公側がテロ行為を繰り返す、00のような主題の物語の場合は特に、最後に彼らが自分たちの罪を、どのように償うのかが問われる。それが本当だと思うのです。けれど、彼らはそれをしなかった。地上に降りて裁きを受けることも、自己を犠牲にすることもなく、生き延びたのです。


1期で、ニール・ディランディははっきり「咎は受ける」と言いました。
愛する家族をテロで殺され、自らテロリストとなる矛盾を抱えてまで戦争根絶を決意した人。彼が心から憎んだ宿敵との死闘のさなかに言った言葉です。どうして信じない訳があるでしょうか。


アレルヤのもう1つの人格ハレルヤは、自分の残虐な行為の間も、アレルヤの意識を喪失させませんでした。それは自分の手で今何をしているかを、容赦なく突き付け続けているのだと思っていました。しかしその仮借なさは2期以降変質しました。むしろ、アレルヤが罪を棚上げしたまま私的に幸福になることに手を貸す側に回ったと思います。


それでも2期は、まだ主人公の行く末を見守ろうと思った。劇場版を見るまで、結論を出すのは待とうと思いました。結果は、なし崩しの主人公側に限りなく甘い結末でした。


本来の主人公である刹那も、もしかすると刹那以上に重い主題を背負う存在となったかもしれないアレルヤも、ニールやハレルヤに代わる、また彼らを越える、己の罪を直視する眼を、自分の内側にはついに持ち得なかった。持ち得ていたなら、劇場版での行動も自ずと変わっていたでしょう。自ら最も過酷な役割を果たした筈だと思うのです。


その人物にあくまで寄り添うなら、グラハムの終盤での行動は、受け入れるべきなのかもしれません。けれど、物語としてみたとき、一度トランザムすれば後が無い疑似GNDしか持たないグラハムに、何故あの過酷な役目を負わせたのか。どう考えても納得がいきません。あの役目は、本来主人公側が負うべきものだと思います。


主人公が罪を重ねた地上で何の裁きも咎も受けず、別世界へ脱出して救世主扱いになる物語。彼らと戦う巡り合わせとなったグラハムが、大切な人々を失い、自らも心身共に深く傷つき、それでもひたむきに前に進み続け、ELS戦では主人公側をも救いながら、生還が描かれない物語。この矛盾。


生と死とに関わらず、この人にはこの生き方しかなかったと心底納得できる、まっとうな物語の中でその人が存在することを願う。それは作品を見る者にとって、その人が生き延びるのを願うのと同じくらい大切なことだと思うのです。そのまっとうさのない作品を、繰り返して見ようとは思いません。



初出・2012/01/15 フォレストブログ

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