主人公について

□二重の依存 ―旧ブログ  コメントより@―
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ガンダム00一期を繰り返し見ていた頃、CBが滅びた後、世界の人々はCBの残した深い傷を忘れず、どうすれば戦争の無い世界になるのか、自分達自身で考え、進み始めるのだと結末を想像していました。


けれど提示された紛争等の問題に、(CBなど要らないと拒否を突き付けるくらいに)個々の人々が地を這うように向き合い、取り組む姿はついに具体的・現実的には描かれませんでした。


結局劇場版で選ばれた話は、刹那という特殊な(脳量子波による対話?能力を持つ)人間のみが、人類の危機を何とかしてくれるという、却って依存を助長するような話でした。


更にはその「特殊能力」を持つ主人公自身が、サブキャラクターであるグラハムの、命を懸けた行動に頼らなければ、目的を遂げることはできなかったという、二重の依存がありました。


主人公の機体ダブルオークアンタは、本来ELSを殲滅するだけの戦闘能力を備えていたといいます。そこまでの機体であるなら、自ら単独で突破口を開いて、ELSとの対話に漕ぎ着けることはできなかったのか?
主人公とそのガンダムにそこまでの荷を負わせなかった、作品を創る側の姿勢の問題として、疑問を感じるのです。


最後の一番危険なミッションは、自分と機体の持てる限りの力を発揮して、誰に頼ることなくやり遂げるのが、主人公という存在ではないでしょうか。


サブキャラクターの助力にも頼らず、単独で生命の危険を冒して最後の使命を遂行したという点で、例えばガンダムW(TV版)の主人公は歴然とした違いがあります。


こうした依存の構造は、超人機関の子供達についても同様です。アレルヤの悲劇性は、ひとえにあの子供達の理不尽な死に負ぶさったものでありながら、その代償としての結末の付け方は、倫理的に余りに甘過ぎました。彼は裁きや咎を受けることもなく、自己を犠牲にすることもなかった。
こうした所にも、あの物語の、依存と甘えの構造は見て取れると私は思います。


あの子供達が生きていたら、ELS襲来で真っ先に侵食を受けることを、勿論アレルヤはわかっていた筈です。もし私があの作品を創る立場の人間なら、今生きているマリーのためではなく、自分が手にかけなければどんなかたちでも生きていた筈の、そしてELSの標的となった筈の、自分と同類の子供達への贖罪として、アレルヤにELSとの戦いの中での死を与えたでしょう。
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