主人公について

□覚え書・超人機関の子供たち I ―旧ブログコメントよりA―
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超人機関の破壊をアレルヤがスメラギに提案した時、トレミーにいたメンバーの誰一人、何とか子供達を生き延びさせる手立てはないかとは考えず、助けたいという声すら上がらなかった。最初から殲滅するも已む無しという姿勢でした。


戦争根絶を掲げながら、CB(ソレスタルビーイング)は目的のためには対象の殲滅をも厭わない組織であり、保護して再び育むという発想・思想・意志とは、相容れないものがあったと思います。


あの子供達を皆殺しにするという主人公側の選択は、心理的な意味では、過去、自分が生き延びる為に仲間を殺した自分自身に、何の尊厳も見出だせなかったから…だから同胞である子供達にも、何の生きる意味も尊厳も見出だせず、最初から殲滅しか道は無いと、決めてしまったような気がします。


同じことは、刹那にも言えるでしょう。自分の両親をその手にかけた彼が、自分が存在するだけの意味を感じられるとは思えません。破壊することでしか戦争根絶への道を見出だせなかったのは、心の底で、自分自身を憎み、破壊したいと思っていた反映ではないか。


主人公に、自らの破壊行為の原因を外の世界のみに求めるのではなく、自分自身の内面に照らして、自分のした行為と向き合わせ、考えさせ、行動させる。その中で、再び生きる意味や、尊厳を取り戻させるのは、作品を創る側の為すべき事ですが、それは為されませんでした。


一期では僅かに、たとえば13話で、救出したマスード・ラフマディーを王宮に送り届ける際に非武装を選択するなど、CB本来の破壊殲滅の路線から、主人公自身の意志で逸脱する動きが見られました。しかし結局は、二期〜劇場版を通じて、CBの創設者イオリアの思想(?)の掌の上から、主人公側は一歩も出られませんでした。


私的には、映画を見ているうちに、刹那にもアレルヤにも、共感できる人間らしさが全く感じられなくなり、次第に存在感が薄れていくように思ったのです。


本当に自らの罪やそこから生まれる苦悩に向き合おうとするなら、魂の救済の為の宗教ですらない他者の一思想に依ることなく、そこから逸脱してでも、自分自身の頭で考え抜き、心で感じ、行動できなかったのか。


そんな姿勢が全く感じられなかったのが、主人公の存在感が薄れた原因かもしれません。


ここにもまた、前回書いた依存の構造があると思います。
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