宇宙の病院船(妄想)


□IV
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ハーリスの話は、彼らの両親が、教師になろうと志を立てた頃まで遡る。


兄弟の父ラシードと母ロヤーは、故郷のサフル村の小学校で教師をしていた。ザドキアでは、2270年代から、いくつかの援助国が協同で教師養成のための奨学金制度を設立した。当時のザドキアは、支配者こそ違え、やはり独裁政権下にあり、人権抑圧や援助金の使途をめぐる不正等の問題から、国際社会の支援については賛否両論があった。有志の国々は、人員を派遣し援助金の流れを監視、不正が発覚すればその時点で援助を停止するという条件でザドキア政府と合意した。政権はそうした不正は存在しないとしながらも、元々豊かでなかった経済がこの頃更に悪化していたことから、この援助を受け入れた。両親はこの奨学金で高等教育を受け、教師となった。


家計を支えるために学校に行く時間を削って働く子供が多く、今の時点で成績優秀な者だけを選抜して奨学金を出す方法では、本来は意欲も能力も持っている者がこぼれ落ちてしまう恐れがあった。このため、ザドキアの教育援助に長年携わる教育者が面接に重点を置いて学生を選抜した。本人の教師になりたいという意志を重視して、今の時点での出席率や成績に関わらず、最初の一年間は奨学金を受けられる制度にした。


また家計を支える学生のため、特例を設け、教師の免許がなくても、小学校で現職の教師の助手として働き、給料を受け取れるよう助成金を学校に出した。助手になるには、そのための試験を受け、成績が一定のレベルに達していることが条件だった。関門を通った奨学生は研修を受けた後、現職の先生を手伝い、生徒一人一人に付き添って読み書き計算ができるようになるまで教えるのが主な仕事だった。他にも教材作りや、運動会や劇など学校行事の企画にも参加した。学生は教師としての実習体験、学校は教師不足の改善、子供たちはよりきめ細かい教育が、それぞれ得られるよう考えられた制度だった。


一年毎に、彼らは評価を受けた。教師養成課程の成績、教師助手としての成果(直接教えた子供の学習理解度を担任教師が評価する)、援助国担当者との面接。これらを総合して、卒業までに教師として適性・意欲・能力に欠けると判断された学生は、奨学金を打ち切られた。ハーリスの両親はどちらも給料をほとんど家に入れながら勉強を続け、厳しい条件のもと、優秀な成績で卒業した。
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