□霞の先の君
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平穏そのものと云うべき空間で、仙人・太公望はのんびりと川に釣り糸を垂らしていた。
やわらかく照りつける太陽の光が心地よくて、釣りの最中なのにも関わらず、ついうとうとと船を漕ぎかけてしまう。
…尤も、彼の釣竿で魚が釣れるわけはないのだけれど。

「ふむ…やはり騒々しくないのは良いことだな。」

少しばかり退屈だが、と言い掛けてやめた。口にすればより陰鬱な気分になってしまう気がしたからだ。
釣り糸の先を見つめながら、太公望は人の世での出来事を反芻していた。


僅かばかり前の事。
遠呂智討伐の命を受けてから単独で下界に降った。そこで出会った蜀の劉備という武人に加勢し、人と共に戦い、人の持つ可能性の大きさを知った。
最初は人の力など知れたものだと考えていた。だが、例え窮地に陥っても尚諦めず立ち向かう彼等の姿を目の当たりにしたとき、感興した。
同時に賭けてみたいとも思った。そして見事賭けは成り、無事仙界へ帰還して此処に至る。

(そういえば、あの鋭敏な軍師殿はどうしただろうか)

薄茶色の眼をした、あどけなさの抜けきらぬ若き軍師。歳もさることながら、何より彼の聡明さは突出していて目を見張るものがある。
…人は見かけによらぬと言うのはああいう事なのだろう。まだ成長過程だが、熟せばいずれ世に大きく羽ばたく才を備えている。

「惜しむらくは人の子であるところか。」

人の子は短命だ。
故に懸命に生きるのだとも云う。

ならば、あの燕の子はこれからどのように生きて、どういう終わりを迎えるのだろうか…興味がある。
太公望は重い腰をあげ、竿にしていた打神鞭を肩に担いだ。

(このように気分が昂揚するのは久しぶりだな)

下界へ続く岩の道を、軽やかな足取りで進んでゆく。紫霞の漂う宮を横目に、まっすぐに地上へと向かって駆ける。
太公望の唇は緩やかな三日月を描き、紫翠のような瞳は期待に輝いていた。



さあ、燕の少年がその翼で飛び立つ姿。

この目で拝みに行こうじゃないか。




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