綴
□しがらみを越えて
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「あれからもう何年経ったんでしょう。」
「ん?何だいきなり。」
また貴方はそんな知らないようなふりをしている。私が考えていることなんて、本当は全部判っているくせに。
孫策殿は意外に意地の悪い御方ですから、仕方ないですけれど。
「孫策殿と初めてお会いした時を思い出していたんです。」
一族再興の為に呉へ赴いて、私が孫権殿のところへ仕官した頃。孫策殿にお目通りが叶い、功績を上げれば再興への取り計らいをして頂く約束を交わした夜。
あの日は星が美しい夜だったのだけど、…覚えておられるでしょうか?
1人泣いていた私を強引に連れだして、物見櫓に上がって一緒に星を見たのを。
「ちっこかったよなあ、お前。可愛かったぜ〜ホント。…目はおっかない獣みたいだったけどさ。」
「……ええ。」
ふふ、なんだか困った表情をしてらっしゃるようですね。もう昔の事ですから、そんなに気になさらなくていいのに。
確かに陸家にとって孫家は仇でした。けれど今日、かつての因縁とやらも形をあやふやなものにしてきていますし、私自身も随分と丸くなったように思います。
「ツンケンとしていた私がこうして変われたのは、孫策殿の計らいがあればこそです。感謝してもしきれないですよ。」
「俺はなんもした覚えはねーけどなー。」
「まったく、棒読み丸出しで何を仰っているのですか。」
孫策殿が子供のように振る舞う時は照れている証拠。本人は無意識のようですが、嘘をつく時語尾を伸ばす癖をお持ちですから、すぐに判ります。
不意に、和やかな気持ちの中にもやもやしたものを感じて笑みが苦笑いに変わりました。幸い貴方は気づいていないようです。
湧き出てきた感情の正体は判っていました。それは、誰にも見せてこなかった醜くて穢らわしい私怨や憎悪。ひょこっと顔を覗かせては私の心を掻き回してゆく。
実に面倒な…けれど私が私でいる為に必要なもの。
やはり、家族を失った憎しみや痛みが完全に消えることはないのでしょう。今までも、これからも。
私は事実上滅ぼされた一族の長としてここにいるのです。陸の姓を捨てるときは、それは私が死ぬとき。
それまで皆の期待と思いを背負いながら、生きていくのです。孫策殿も同じ長子という立場なら、きっとお分かりになるはず…ですよね?
決して考えを押しつけるつもりはないのです。ただその事を記憶のほんの片隅にでもいいから、留めておいて欲しい。
「なあ陸遜。」
「はい。なんでしょうか?」
つい事務的な調子で返してしまいました。
どうしたのでしょうか、いつになく覇気のある口ぶりで話しかけていらしたので、緊張で胸が早鐘を打っています。
「俺は後悔はしてねえぜ。」
孫策殿の一声は私の胸中への返答とも言えるものでした。
自ずと内にくすぶるざわめきが大きくなって、せき止めていた激昂が溢れそうになりじわりと額に汗が滲むのがわかりました。
「孫呉が力をつけるために結果的にお前の一族に手を掛ける事になっちまったけど、なんてったって今は乱世だ。やらなきゃ、やられちまうんだ。」
正論すぎて返す言葉も見つかりません。
けれど、悔しくて憎らしくて疎ましくて。
そんな思いに支配される愚かな自分が情けなくて。
かたく口を閉ざして立ち尽くす私を引き寄せて、孫策殿は口づけを落としていきます。初めは瞼に、次に鼻に、頬に、唇に。
されるがままに私は大人しくそれを受けました。
「伯言。また、星でも見に行こうぜ。」
「…覚えて、いらしたんですね。」
「そりゃあもちろん。散々引っかかれたり、噛まれたりしたからなあ。」
「あの、それは、…忘れてください。」
恥ずかしくなって、俯きながらそう言うと凛々しい顔が明るく微笑んでくれました。
不思議なものです。孫策殿に字を呼ばれたらささくれだった心が、嘘のように穏やかになるのですから。
これを、この想いを、人は恋と呼ぶのでしょうか。
「伯符殿…、……。」
こっそりと耳元で囁きを告げました。
陸伯言はこれから先も人生の時満ちるまで、貴方に尽くしましょう。
――殺したいほど、愛しています。
fin.