□黄昏の朱
1ページ/1ページ




いつだったろうか。
彼の人の子と逢瀬契りを交わして、それきりになってしまったのは。


若くして聡明な、美しい燕の子。
青年と呼ぶにはその容姿は幼く、かといって少年と呼ぶにしてはあまりにも頭の切れる呉の軍師。
仙界の外れで川のせせらぎを聞きながら、太公望は会う度に大人びていった想い人の影を、ひっそりと胸の内に甦らせていた。

「人」と「仙人」。
本来ならば交わることのない世界が交わってしまったあの日。誰とも距離を詰めまいとしたあの時。
赤い燕尾服に目を奪われてから、それまで静かだった心が燃えるように熱くなるのを確かに感じた。

争いが終わって幾年月。
久々に下界へ赴くと、少しばかり歳を重ねた彼が変わらぬ笑顔と礼儀正しい挨拶で迎えてくれた。
髪の毛が2寸ほど伸びて、以前とは違い幼かった表情もすっかり逞しい大人の顔つきに変わっていた。
しかし、それと同時に募る不安も大きなものになっていった。


――逢瀬の度に歳をとる彼と。
――いつ逢ってもさほど変わらぬ自分と。


いつか必ず訪れる運命を憂いては、ちくりとした痛みが常に胸を締め付けた。

そしてついに危惧していた事が起きた。
原因は精神疲労による病死。仕えていた主の後継者争いに巻き込まれたらしい事を、彼の死去した数日後に耳に入れた。

その時ばかりは思考も非論理的になって、ただただ運命を呪い自分を呪った。
人であったならばどんなに良かったかと、やりきれぬ感情が津波のように寄せて襲いかかってくるのを、誰にも知られぬように黙って堪えた。

それでも、胸に空いた空洞は簡単には埋まってはくれないのだけれど。


「人間の命っていうのは、こっちが必死に足掻いたところでどうにもならん。わしらより先に逝ってしまうもんなんじゃよ」


背後から落ち着いた物腰の声がする。
身の丈ほどの大剣を背負い、柔らかな笑みを浮かべた大柄の男が振り向いた先に立っていた。


「……伏羲か」
「物思いに耽っとるとこすまんな。あんまりにも酷い顔をしとって心配じゃったから、付いて来てしまったわ」
「相も変わらず物好きな奴だ」
「まあそう言ってくれるな」


間抜けな会話だ。けれど不思議だ。
さっきまで感じていた悲哀の情が、僅かにだけ軽くなった気がした。これは伏羲の持つ独特の雰囲気のせいなのだろうか。


「いいか坊主」
「説教なら聴き飽きたが?」
「いいから聞かんか」


妙に真剣味を帯びていた物言いに思わず怯む。無言で視線を返すと、伏羲は安心したような笑みを見せて再び話し出した。


「過去に捕らわれるのが悪いとは言わん。だがいつまでもそうしておるわけにはいかんのだ。それはお前自身が一番よう知っとるじゃろ?」
「……、…」


友の言葉が、深く胸を刺す。
切なさが、心の空洞を通り抜けていく。


「でも、忘れなくていい」


胸中を吹き荒ぶ風が、止む。


「失う痛みは己を強くする。これからのお前の糧になる。残された者に出来るのは、生きていた事実を憶えておいてやることくらいじゃよ」
「…伏羲!私は、……」


顔を上げた先に伏羲の姿は無かった。
代わりに、温かな風が流れていた。肌を撫ぜる風はどこまでも優しくて、気づけば視界は歪んでいた。


「…忘れはしない。決してな」


西に沈む夕陽の朱を反射して、川が橙色に煌めく。
その光景の奥に燕の姿を見ながら、太公望は彼の名を紡いだ。





[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ