綴
□白と黒の境界
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「陸議、これからお前には陸家の長として立ってもらわねばならぬ。この意味がわかるな?」
「…はい、叔父様。」
陸議と呼ばれた少年は、じっと机の上を見つめながら徐に返事をした。
濃い茶の髪と瞳、太陽に灼かれた色づきの良いきめ細やかな肌。整った顔立ち。幼くして実に美麗な少年。
だが彼の表情は、決して子供の持つそれとは違っていた。
…まるでそう。人形のような。
「孫家は忌むべき敵だ。武を以て我ら豪族を従わせようとするなど、言語道断!」
「陸議様、亡くなられた陸康殿の仇をどうぞとってくだされ!」
「その聡明さあらば、陸氏の再興も夢ではないぞ。」
様々な怒声や期待の声が頭上を舞う。
何か話をふられれば適当に答えて、なんとかやり過ごす。
陸議はひたすらに俯きながら、いつ止むとも知れぬ人々の騒音を聞いていた。
力みすぎて血の気が引き白くなった兄の手を、陸瑁が悲痛な眼差しで見る。
それに気付いているのかいないのか、真っ直ぐ前を見つめて、彼は独り言のように言った。
「わたしなら、大丈夫です。」
一瞬見せた笑みのない表情。
そして再び叔父や叔母、残された将達と話し始める陸議。
いつも笑っていた姿が刹那でも無かったことに、陸瑁は呆然としていた。
数歳しか離れていない兄が、親しげに話してくれる彼が、なんだか遠くに行ってしまう気がして。
微々たる怖れを感じながら、陸瑁も場の流れに身を任せて、交わされる大人達の話に耳を傾けた。
* * *
…月の蒼い夜だった。
同じ晩陸瑁は、話し合いの後に音もなく立ち去った兄を追って自室を訪れた。
確かに叔父上の言っている事も判らなくはない。けれど、兄の明らかな表情の暗さに言い表せぬ不安を覚えていた。
少しだけ開いた扉に手をかけ、ゆっくりと奥に押す。戸の軋む音が静寂を裂く。
「…?」
天窓から差し込む白い光に、ひっそりと浮かび上がる姿。室内に入ろうとして、そこに漂う異様な雰囲気に足が止まる。
時折揺らめく影をじっと見つめていると、何かを反射する光を捉えた。
兄の手に握られた“何か”。
ちらつく光と、鼻につく異臭。
「…にいさん?」
震える足で、兄へ近づいていく。
小さな声で呼べば、それでもゆっくりとこちらを振り向く陸議。光の照り返しが止まった。
張り付いた笑みが空気を動かす。
「陸瑁、ですか?」
返ってきたのは力の抜けきった返事。
交差する視線に光がないことを、そして彼の手に握られたものの正体を知って、陸瑁は思わず駆けだした。
ぬるりとした感触が肌に纏わりつく。
月明かりの下で黒く見えるそれは、明らかに陸議の腕から溢れてきていた。
泣きそうになりながら、陸瑁は兄の手を叩いた。ガラスの割れる音が辺りに響く。
それでも陸議は動じる事なく、ただ言うのだ。
「わたしなら、大丈夫ですよ?」
とうとう陸瑁は泣いた。声を殺して。
そうしたら兄は頭を撫でてくれた。いつもと同じように、心から慈しむように。温かいはずの行為が今は痛みでしかなかった。
変わらない笑み。
反して笑わない瞳。
誰が兄をこんな風にしてしまったのだろう。
2人がいる場所で、1人分の啜り泣く声だけがその部屋の音のすべてだった。