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□むかしのはなし
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 瞼を持ち上げる力は残っていない。唾を飲む力も残っていない。上半身を起こし両手を祈りの形に合わせる力なんて、とっくに。
 ここに来てもう何日経ったか。丁にも鬼灯にも分からないから、神様以外は誰にも分からない。


(神獣さま)


 丁が心の内で呟くと同時に、鬼灯の頭の中で記憶が弾ける。今までの何もない空間に人が現れた。ひらひらした、古代中国を思わせる服を着、こめかみの上あたりから角を生やした、神獣白澤。
 鬼灯が驚く隙もなく、丁は白澤との日々を頭に浮かべ出した。水神への祈りでどうにか押し退けていた、幸せな思い出達だ。


 初めて会った時、水汲みを手伝おうとしてくれたが断ったこと。

 汚い自分を膝に乗せ、遠い場所の話を聞かせてくれたこと。

 桃という果実をくれ、おいしいと言った時の嬉しげな顔。

 本来の姿だという大きな獣のような彼の尻尾の、もふもふという手触り。

 鞠の蹴り合いを楽しいと言った時の笑顔。


 最後にもう一度会いたかった。しかしこんな自分を見たら彼は胸を痛めるだろう。だから黙っていた。
 名前を呼んであげればよかった。そうしたら彼の笑顔がまた一つ増えたのに。
 感覚が麻痺して随分経ったのに、胸が痛みだす。詰まるようなそれは白澤と別れる時にいつも感じたものを、強烈にした痛みだ。


(寂しい。あなたがいないのは、あなたがいない場所で死ぬのは)


 水分を限界までなくした体は涙を出さない。泣くと悲しみや寂しさが和らぐと白澤は言っていた。泣けないのでは、痛みは和らがない。
 今さらだと思いつつ胸の中で彼の名前を呟く。それが、丁の最後の言葉となった。



* * *



 あの時のことは今でも鮮明に覚えている。

 現れない丁を空から探し、足で探し。ようやく見つけた時には小さな体は動かなくなっていた。
 大きな瞳はこちらを見ることはなく、唇も弧を描いてくれない。あの日抱きしめ返してくれた腕に力が入ることはない。抱きしめても温もりを与えられない。
 その死を理解した瞬間叫んだ。絶叫はすぐ様慟哭に変わり、丁を濡らした。


『――殺してやる』


 殺意の矛先というより怒りのぶつけどころだった。動物が好きな丁によく見せた本来の姿に戻り、空を翔け。そこから日々を営む村人達を見下ろした時、はっとして動きを止めた。
 丁の体には怨みが横たわっていた。つまり彼の本望ではなかったのだが、彼らを殺しては、丁の死の意味が消える。
 白澤は踵を返して天に昇った。水神に雨を頼む為だ。雨が降らなければ、やはり丁の死が無駄になる。


「――……白澤様!」
「うわっ!?」


 背後から呼ばれて肩を跳ねさせる。振り向くと眉を吊り上げた桃太郎が仁王立ちしている。


「もう、何度も呼んだんですよ! 材料取ってきました」
「あ、うん、ごめん。そこに置いといて」
「……昨日、何であんな盛大な追いかけっこしたんです?」


 躊躇いがちに訊かれ、どうしたものかと考える。桃太郎には悪いが答えるより泣き言を言いたい。机に突っ伏す。


「……鬼灯に嫌われる」
「え? 今更じゃないですか」
「あれは嫌よ嫌よも好きのうち、の嫌いだからいいの。本格的に心底嫌われるよ……はあ」


 ここまで気が重くなったのは、彼に想いを告げて玉砕する想像をした時以来だ。
 結局、上司が酷く落ち込んでいるという情報しか得られなかった桃太郎が「元気だしてください」と慰めてくれた。しかし、焼け石に水レベルに効果は少ない。


「泣きたい……いやもう泣く……」
「貴方の泣き面なんて気持ち悪いもの見せないでください」
「っ!?」


 ずっと頭を占めている人の声がして、勢いよく頭を上げる。扉を後ろ手で閉めた鬼灯がこちらへ歩いてきていた。出かけた涙が引っ込む。


「ほ、ほお、ずき……」
「こんにちは、白澤さん」


 普通に開閉された扉、正しく呼ばれた名前。もう戯る気はないと言われているようで、胸が苦しい。
 桃太郎が仙桃取ってきますと外へ行く。今日の分は取り終えているのに。
 ぱたん、と扉が閉まった後は何の音も残らない。こちらから何を言えばいいのか分からず、鬼灯の動作を待つ。


「……なぜ記憶を封じたりしたんですか」


 何より先に責められるかと思ったが、疑問の解消の方が先らしい。白澤は己の膝に視線を落として答える。


「お前に嫌われるかと、憎まれるかと思ったら、……怖くて」


 鬼となった鬼灯――あの頃は丁か。丁を見つけたのは、あれからすぐのことだ。動く丁をまた見ることができて喜びで胸を詰まらせ、直後に凍らせる。


 己を助けなかった白澤(カミサマ)を、彼は憎んでいるのではないか。


 そう思うと、身体中の血液が下へ向かった気になった。瞬きを忘れて想像した。憎まれていたら、憎悪の目で見られたら。
 おかしくなるくらいの恐怖に襲われ丁に術をかけた。自分との思い出を封印する術を。


「何千年と経って、術が綻んだんだね。そこに術者の僕が作った記憶の薬を飲んだから……お前はすべて思い出した」


 記憶は思い出され、しかも術をかけたことまでバレて、更に嫌われてしまった。悲しすぎて逆に、口の端が持ち上がる。
 恨みの言葉を投げられる前に、憎しみの目をぶつけられる前に、死んでしまいたい。
 恐ろしい沈黙が長く続いたが、鬼灯の溜め息で終了した。


「……まったく、余計なことを」


 ますます顔を上げられない。今から怒濤の言葉の刃が襲ってくるのだ。体を固くして構える。
 顔を上げろと言われたのでノロノロと言う通りにする。鬼灯の無表情は見慣れていないわけでもないのに、白澤の中の恐怖を掻き立てた。


「なんて顔してるんですか」
「…………察してよ」
「そうですね。大方、私が貴方を憎むとか、そんな感じの見当違いのことを考えているんでしょうね」


 まるでそれは間違いだと言うような台詞に、下げかけていた顔を上げる。鬼灯は無表情に呆れの色を点してこちらを見ていた。


「記憶を封じられていたのは百回頭突きしたいくらい腹が立ちましたが、私は最期まで、貴方を恨んだりしてません」
「ウソ、だろ……だって僕はカミサマなのに、お前を――……」
「助けてと言わなかったのは私です。何を気に病む必要がありますか」


 冷たくなった小さな体。もっと生きることへの喜びを教えたかったのに。未来を見守っていたかったのに。死んだら桃源郷へ連れていって、ずっとずっと一緒に――
 してやりたかったこと、したかったこと。たくさんのそれらを奪われ、どころか恨まれると恐れて一体何千年、鬼灯の記憶に枷をつけた。


「記憶云々はこれから償わせるからいいですよ」
「ほおず――いっ!」


 頬をあたたかい手のひらで挟まれたと思ったら頭突きされた。裂けた皮膚が再生すると同時に温度は体のほとんど全体に回る。白衣の背中をぎゅっと捕まれる。


「どうして恨むなんてことがありますか。愛もあたたかさも知らずに死ぬはずだった私なのに」
「鬼灯……」
「感謝してます。伝えきれないくらい」


 かつて自分が抱きしめた人の子の体温。その愛しさはまったく変わっていなかった。
 抱き変えそうと腕を動かすと離れられた。名残惜しさに、立ち上がった鬼灯を見上げ――振りかぶられた金棒をばっちり視界に入れた。振り下ろされたのをすんでのところで避ける。


「ちっ」
「えっねえ今のってしっとり幸せ気分が続く感じじゃないの!? あわよくばベッドインムードだったよな!?」
「償わせるっつったろ淫獣。頭突き百回……あと九十九回」
「金棒で攻撃してきたけどね!?」


 一瞬にして霧散した雰囲気を嘆く。しかし頭突き百回で許してくれるというのは相当な温情、つまりデレだ。思い返せばここ数分の鬼灯はスーパーデレタイムだった。それに気付いてにやけていると金棒を喰らった。


「ああそうだ、真面目な話だから人がちゃんと名前呼んでやったのにビビったからプラス三十回」
「え!?」
「全体的に被害妄想が激しかったのでプラス五十回」
「ちょ」


 ただの頭突きならいいが鬼灯のは何て言っても「つのでつく」。顔面を蒼白にした自分に笑いかける鬼灯は、それはそれは楽しそうだった。















* * *
何番煎じだろうと面白い話は面白いですね。人様が書いたものに限りますが。しかし長くなりました。

 
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