main

□彼と彼の嫉妬について
1ページ/1ページ




 薬のにおいがするだろう白衣の胸にしなだれかかる、たおやかな体。華奢な肩に置かれている、効果抜群の薬を作る手。
これだけ揃えば十分だ。


「あっ、えと、これはちか……っ」
「桃太郎さん、薬は」
「あー…………まだ、です」


 女にかまけて遅れたか。冷えていた胸が更に凍える。
 白澤が、いまだに胸にもたれる娘を離して薬を作りに動き出した。鬼灯は待つ気になれず店を出る。慌てて呼び止める声が聞こえたが止まらない。


「待てよ!」


 十数歩進んだところで肩を掴まれた。白澤は、泣きそうと焦っているを混ぜた、必死な顔をしていた。


「最初に言ったでしょう。一回でも浮気をしたら終わらせると」


 言い訳を捲し立てられる前にぴしゃりと言い放った。それでも口を開く白澤の手を払いのけ帰り路を行く。
 数十年――思い返すと短いが、淫獣にしては長くもった。
 あの男は裏切らないと信じた自分が馬鹿らしい。白澤は白澤、女好きという性は変えられなかったか。

 結局自分もその他大勢と同じだったというわけだ。落胆というには重すぎる衝撃が泥みたいにのしかかって、息がしづらかった。



* * *



「鬼灯さん、薬のお届けですー」


 執務室で書類を処理していると桃太郎が訪ねてきた。向こう側を探ってから扉を開ける。察知した通り、桃太郎一人だけが立っていた。しかし右手の曲がり角に気配を感じる。


「わざわざすみません、取りに行ける者がいなかったもので」
「これくらい平気ですよ。それよりあの、白澤様のこと……」


 何と言ったらいいか分からないらしく、桃太郎は言い淀んだ。
 白澤の裏切りに炎を閉じ込めた氷のごとくぶちギレてから、五日経つ。極楽満月には行かなくなったが、白澤は毎日やって来た。ことごとく門前払いをしているが諦めない。
 鬼灯は溜め息を吐いた。目だけを横にやり、曲がり角から覗く白い布――白衣の裾を見る。


「ひとまず話だけ聞きます」
「えっ、いいんですか?」


 目に見えて表情を明るくする桃太郎は本当に上司思いだ。
 気の迷いや心移りが原因だったら、どれだけ言い訳されようが謝られようが許さない。しかし訳があるなら話は別だ。


「白澤様の本意ではないと分かっていたんですか?」
「そうではないかと思った程度です。アレが誘ったなら相手の腰くらい抱いていたでしょうし」
「は、判断材料そこだけっすか……すげえ……」
「恥ずかしながら気付けたのは昨夜ですが。まあ、まだ半信半疑ですよ」


 さすがに頭に血がのぼっていた。桃太郎は驚いているが、こんなの以前の白澤を知っている者ならすぐ分かることだろう。
 扉を開け放したまま踵を返す。所在なさげな桃太郎に振り向く。


「どうぞ中へ。……そこの馬鹿も、そんなとこに突っ立ったままで烏天狗警察呼ばれたくないなら入れ」


 ダダッ、と足音がしてから、白澤が顔を出した。奇跡を見るような阿呆面が見るに堪えなかったので山積みの書類に目を逸らす。話を聞きながら処理――はミスをしそうだからやめておこう。
 白澤が勝手にベッドに腰かけ、真面目な顔をした。雰囲気を察して退室した桃太郎の爪の垢を煎じて飲んでほしい。


「彼女はね、水神の娘なんだ」


 曰く、彼女は長い間白澤に惚れていたらしい。神が長いと表現するのだから相当な時間だろう。
 娘は白澤の伴侶になりたいと胸を焦がしていたが、父である水神に許してもらえなかった。可愛い娘を、神の類いとはいえ、女好きで浮気性で甲斐性無しで女好きでだらしなくて軽薄で女好きで不埒で存在を認知しただけで妊娠してしまいそうな男にはやれないと。


「その水神僕のことちっとも分かってないよねー、まったく」
「的を射ていますが」
「…………」


 とにかく、父親の反対が激しかったので娘の想いは秘めたものとなった。それなのにアタックされているのは、白澤の女遊びがぱたりと止んだので父親が首を縦に振ったからだとか。


「で、向こうは毎日アピールしてきてね。どうにか諦めてもらいたいけど……」
「貴女のことは好きになれない、と言ったらいいでしょう」
「言ったさ。そしたら『好きになってもらうまで諦めない』って」


 白澤の溜め息が床へ滑る。浮かない顔をよく見ると、頬の線がやや痩けていた。
 鬼灯は対処法を思い浮かべて打ち消した。恋人がいる、と断ることはできない。自分と白澤の関係は鬼と神獣という身分差と性別ゆえ秘密だ。誰かに白澤の恋人のフリをしてもらうというのも、娘の怒りが協力者に向く可能性があるので却下。


「しばらくしたら飽きませんかね」
「神ってのは一途なんだよ、そう簡単には諦めない」
「あちこちへフラフラしていた豚が何を……」
「あれは本気じゃなかったの! だから今はお前だけだろっ。あと豚言うな!」


 サラリと最低な発言を聞いたが、直後にサラリと口説かれツッコみ損ねた。表情筋を動かさなかった自信はある。
 黙って情報を整理する。白澤はその娘と男女の接触をしたいわけではなく、五日前のアレは娘が一方的に寄り添っていただけ。それが事実なのだと理解した瞬間、胸の風通しがすぅっと良くなった。


「ねえどうしよう、これじゃあお前に会うのもままらないよ。あの子がどこから見てるか分からない」


 白澤は情けなくも泣きそうになっていた。鬼灯も、泣きはしないがこの事態は大変好ましくない。泣き顔気持ち悪いと軽口を叩くことはできなかった。
息とともに体の強ばりを外へ逃がす。解決策が出てこない。


「明日からは私が薬を受け取ります」
「えっ、ホント!?」
「さしたる理由もないのに受け取り役が替わったら不自然でしょう。解決するまでは必要最低限の接触しかしないでください」
「えっ、なんで!?」


 コイツは女にだらしなかったくせに、自分以上に女のこういうところを分かっていない。目を剥いて詰め寄る白澤に反射で三点目潰しする。


「女性の勘は侮れません。特に、好きな男やその周辺はよく見るでしょう。勘づかれますよ」
「だからって……デート(視察に付いて行く)は?」
「無しです」
「お泊まり(自室に連行・拘束)は?」
「無しです」
「い、一緒にご飯(食堂に押しかけ)は……」
「そういうの全部無しだっつってんだろ」


 白澤が頭を抱えてうわあああと項垂れた。こんなところで発狂しないでほしい。
 嫌ならさっさと解決しろと白澤を蹴りだし、扉を閉める。喚く声が聞こえたが耳詮をして無視した。



* * *



「……桃太郎さん」
「は、はいっ」
「あの女何かの罪状で地獄にしょっぴけませんかね」
「俺は刑法詳しくないんで……ははは」


 彼は白澤以外に八つ当たりするような鬼ではないと分かってはいるが、いかんせん殺気となった苛立ちが強烈すぎる。桃太郎は訳もなく土下座したくなる心を奮い立たせて笑顔を作った。
 件の水神の娘は、薬を作る白澤とカウンター越しに談笑している。身を乗り出して頬杖をついて上目遣い、然り気無いと思っているのは本人だけのボディタッチ。
 鬼灯は入り口の脇にもたれて薬を待っていた。ただ二人を見ているだけだと不機嫌が娘に届くくらい漏れるらしく、兎を撫で続けている。桃太郎は話相手だ。


「白澤様、甘いものはお好きですか?」
「え? えーと」
「ケーキを作ってみましたの。召し上がってくださいな」


 一瞬鬼灯の周りの空気が膨張した。桃太郎の肩がびくっ、と固まり、自分にしか届かないような声を聞いた。


「豚が好きなのは辛いモンだろうが……」
「ほほほっほほ、鬼灯さん、ちょっと外の兎とも戯れません?」


「あの方は何を笑っているのかしら?」と小首を傾げる娘に「アンタが元凶だよ!」と叫びたくなるのを抑え、兎を床に置いた鬼灯を外へ引っ張り出す。包み込むようなやわらかい陽と優しい景色、ところどころにうずくまる兎。何より白澤と娘が視界から消えたことで鬼灯の纏う空気から苛烈さが抜けた。
 一番近くにいる兎を抱き上げ、正座して撫でる鬼灯の向かいに座る。隣だと上司がうるさいのだ。


「……最近、私に殴られると白豚さんがやけに嬉しそうにするんですが、Mに目覚めたんでしょうかね」
「いや、それくらいしか鬼灯さんが白澤様を見る時がないからじゃないですか?」


 一心不乱に兎をモフモフする鬼灯を見る。二人の前では殺気さえ半径一メートル内に漏らしていたが、表情は平静そのものだった。今は少し、蔭がさしているように見える。
 鬼灯は、娘がいない時でも二人きりの時でも、白澤に嫉妬を見せたり我が儘を言ったりしない。白澤が「鬼灯は僕が他の子と仲良くしても平気なのかなあ」と世迷い言を吐いているから知っている。平気なら浮気なんか笑顔で許すだろうに。


「鬼灯さん、二人きりの時くらい甘えたらいいじゃないですか」
「今はアレと二人きりになる状況は作りません」
「で、電話とか……」
「そもそも甘えるとか嫉妬を見せるとか、私の矜持が許しません……かけても通話中ですし」


 かけたらしい。そして繋がらなくて多生なりともがっかりしたらしい。その時のことを思い返したのか、尖った牙が薄い唇に食い込む。止める間もなく薄い皮膚が破られ、血が溢れ出た。


「ダメですよそんなことしちゃ! 痛いし白澤様が面倒なことになるし!」


 懐から手拭いを出して不自然な赤を拭う。鬼灯は汚れると身じろぎしたが、その抵抗は弱いものだった。
唇の皮を捲ってしまったレベルではない出血に、さすが鬼の牙と眉をひそめる。なかなか止まらない。


「薬でき――、……」
「ぅえっ!? は、白澤様」


 薬の袋を片手に、娘を寄り添わせた白澤が扉を開けた。開けながら発した声は途中で切れた。
 桃太郎はうっかり驚きながらも鬼灯から飛びのくのは堪えた。不自然に思われてはいけない、その一心だ。


(セーフだセーフだセーフだ止血してただけだしセーフだ直には触ってないしセーフだセーフだでも白澤様の目が怖いいいいいいい!)


 口を半開きにして目を見開いていた白澤が、ゆるやかに表情を険しくしだした。これでは娘に不審がられてしまう。
 どうしようかと桃太郎がパニックになっていると、鬼灯が動いた。地面に置いていた金棒を持ち上げ投擲する。


「へぶっ!」
「は、白澤様!? 大丈夫ですか!?」


 後ろへ倒れた白澤の上半身を、慌てて屈んだ娘が起こす。鬼灯の口から漏れたのは溜め息だったが本当に出したかったのは舌打ちだろう。
 地面に転がった金棒と白澤の手から落ちた袋を拾い、鬼灯は二人に背を向ける。


「おいこら、僕なにもしてないだろ!」
「ハァ? 納期に間に合わせなかったサボり魔が何をほざいているんですか」


 金棒を投げられた白澤はやはりどこか嬉しそうだ。これは、白澤様は虐められるのがお好きなのかしらと娘が小首を傾げる日も近いかもしれない。
 その日の夜、娘が帰った後。桃太郎が夕飯の片付けをしている時白澤が呟く。


「鬼灯からしたら、あの程度の接触は嫉妬の対象外なのかなあ……」


 僕だけ妬いてるなあと溜め息を吐かれる。鬼灯が帰った後、然り気無く神獣の冷たい目を浴び続けた桃太郎は背筋を冷たくした。この男、まだ昼の出血を根にもっているらしい。
 桃太郎は油汚れを紙で拭き取りながら白澤を振り向いた。


「あの人も結構イライラしてますよ、アンタらに隠してるだけで」
「あの顔と空気で? ……嘘だろ」


 嫉妬してほしいからこそ、人から聞いた情報は疑わしい。自分の目で耳で知らないと信じられない。不安を拭えない。そういうことだろう。
 白澤が机に突っ伏して唸り出す。桃太郎は洗い物に戻った。


「……そうだ、」


 背後で聞こえた呟きは、全部は聞き取れなかったが、嫌な予感しかしなかった。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ