●○特別○●
□皐月のひと頃
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ある日のお座敷で・・・
「新緑のええ季節になりましたな」
いつものように優雅に杯を傾けて俊太郎さまが言う。
「そうですね。ポカポカしてて、それだけでなんだか嬉しくなっちゃいますよね」
言葉通り、訳もなく弾む笑顔で答える私を見つめ、俊太郎さまは双眸を細める。
「あんさんの笑顔は、春に咲くかいらしい花のようや」
相変わらず手放しに私を褒める俊太郎さまに、すぐに頬を色づかせる相変わらずな私。
「触れるのも躊躇うほどに真白な花かと思えば、
ほんのり朱に色づいて、手折ってしまいたくなる男心を誘惑して。
くるくると色を変えはって、ほんにあんさんはわてを惑わす…」
「……俊太郎さまが、そうやってからかうからです…」
「本心や…」
「……」
一層、色を濃くする私の頬を、俊太郎さまが指の背で羽のように優しく触れる。
「わてに独り占めさしてもらえまへんか」
「え?」
俊太郎さまの唐突な言葉にどきりとして、私は気恥ずかしさに俯いていた顔を勢いよく上げた。
「明日一日、○○はんを貸切にする藍屋はんの許可は貰うとります。
あんさんさえよければ、わてと一緒に出掛けまへんか?」
彼の申し出に、私は一も二もなく頷いた。
すると、俊太郎さまもにっこり微笑んで
「どこか行きたいところはありますか?」
そう聞かれ、私は暫く考えてから・・・
「……お散歩」
思いつたように、そう答えた。
「さんぽ?」
「はい!俊太郎さまと町をお散歩したいです!」
「……町を歩くだけでええんですか?」
「……だめ、ですか」
俊太郎さまは一瞬戸惑った様子だったけれど、すぐに優しい笑みを見せてくれた。
「いいえ。○○はんが望むなら、どこへでも」
言いながら、俊太郎さまはまるで従者のように、指先で救いあげるように私の手を取る。
その仕草を見て、私はずっと思っていたある願望を、
俊太郎さまに打ち明けてみることにした。
「……ひとつだけ、お願いをしてもいいですか?」
――翌日
京の町はいつにも増して活気づいていた。
暖かくなってきて、露店や屋台が増えたせいだろうか。
あちらこちらから威勢の良い声が飛び交っている。
「そこの別嬪さん!ちょいと見ていかないかい」
「旦那!奥方さまにこちらはどうでっか」
時々、照れくさい言葉をもらいながら、呼び止められては冷やかし程度に店を覗く。
右手を包み込む大きな幸福感と、見上げた先から注がれる優しい眼差し。
お店の人が私を奥さんだと勘違いしても、
俊太郎さまもそれを無理に否定しないでいてくれることがまた嬉しくて、
私の心の中まで、春の心地良いそよ風が吹いているようだった。
私が俊太郎さまにお願いしたこと。
それは、どこに行って何をするか・・・
そういった計画を立てないことだった。
昨日のお座敷での俊太郎さまの従者のような仕草を見て思った。
俊太郎さまは、いつも素敵な場所に連れて行ってくれる。
雰囲気のある料亭だったり、何もかもが洗礼された趣のある場所だったり、
絵に描いたような素敵な景色が見える場所だったり・・・。
もちろんそれも楽しい。何の不満もない。
だけど、いつも大人で完璧なエスコートをしてくれる俊太郎さまと、
行き先も決めず、何をするかも決めない、
そんな行き当たりばったりな気取らないデートを一度味わってみたい。
ただ手を繋いで、町を二人でぶらぶらしながら。
そう思った。
そんな中、立ち寄った一軒の小間物屋さん。
店内を物色しながら、一際目を引く色とりどりのそれに私は目を惹かれた。
優しい色合いのかわいらしい絵半切り。
その中でも、桃色、空色、菜の花色に若葉に藤色の五色がセットになっているものを手に取ってみる。
ちょうど、俊太郎さまにお手紙を書くための紙を切らしてしまっていた。
値段も私のお小遣いで買えるくらいの手ごろなものだし、
買って帰ろうかなと思っているところに・・・
「お嬢さん、今日はええ品が入ってとりますえ!こっちも見ていきなはれ!」
「えっ!?」
私はお店のご主人にぐいっと手を引かれ、きらびやかな櫛や簪が並んだ前に立たされる。
「あの…?」
「これなんかお似合いでっせ」
有無を言わせまいというように、お店のご主人が私の髪に簪を当てがう。
「でも…今日は持ち合わせが……」
苦し紛れの言い訳をして逃れようとするけれど、
ご主人の商売魂に押され、言い訳をする隙すら与えてもらえない。
「それよりも、こっちの方が○○はんには似合うと思いますえ」
いつの間にか隣にいた俊太郎さまが横から別の簪を私の髪にかざす。
「おお、流石旦那様!お目が高い!」
「何か気に入ったものがあれば、言うてください。贈らせてもらます」
「いえ!そんな…私は別に…」
目の前に並ぶ品々は、細かい細工がされていて、
装飾に硝子が使われているものもあって、舶来品らしいものも見られる。
どれもこれも私には不釣り合いな高級品ばかりだ。
そんな気後れする私を他所に、次から次へと商品を進めてくるご主人と、
俊太郎さままでその気でいる。
これはまずいと、私は再び商品に伸びていく俊太郎さまの手を捕まえて
「すみません!先を急ぐので!」
俊太郎さまの手首をしっかり握り、ぐいぐいと引っ張りながら店の外に出た。
とにかくお店から離れようと、私は俊太郎さまの手を引いてずんずん前に進む。
とびきりの色男の手を強引に引っ張って歩く私を、みんな振り返り見ていることにも気付かずに。
「○○はん、そないに急いでどこへ行かはるんどすか?……○○はん?」
「…!」
何度目かの名前を呼ばれ、やっと我に返った私は、はっとして彼の手を離した。
「…ごめんなさいっ!」
握っていた俊太郎さまの手首は、ほんの少し赤みを帯びていた。
青ざめる私に、俊太郎さまは怒りもせず、私の手を握り直した。
「……なかなか。ええもんどしたえ。
○○はんに強引に手を引かれるのは。いつも手を引くのはわてやさかいに」
「…でも…痛かった、ですよね」
「いえ、その痛みがええ心地や。じんと残るこの痛みが……。
なんや、男女の情交の跡の痛みによう似てますなあ……」
「…っ」
わざと私を覗き込むようにして言った俊太郎さまの声量は、
二人だけにしか聞こえないほどのものだったけれど、
往来で囁かれた破廉恥な言葉に体を熱くさせ、返す言葉も見つからず、
あわあわしながら目を泳がせた私の目が、あるものを見つけた。
近頃、島原に来るお客さんが口々に美味しいと噂していた、
評判のおそば屋さんだった。
元々は神出鬼没の屋台形式で、立ち食いそばのお店だったらしいのだけれど、
噂通りの大繁盛のようで、今は屋台の周りに長椅子を並べ、座って食べられるようになっていた。
これ以上もじもじしていると、また大人のジョークでからかわれそうで、
私は俊太郎さまの気を逸らそうと、人で賑わう屋台を指差し言った。
「…走ったからお腹すいちゃいましたね!あそこでお昼ご飯にしませんか?」
「ああ、そばでっか。ええね、そうしまひょ」
――
俊太郎さまはシンプルなかけそば。
私は麺に抹茶を練り込んだという変り種を頼んで、
抜けるような真っ青な空の下、時折吹く優しい春のそよ風を受けながら、
二人仲よく長椅子に肩を並べて座り、おそばをすする。
青空の下で食べる食事はいつもより美味しく感じるのはどうしてだろう。
「抹茶のそばのお味はどうどす?」
「お抹茶のいい香りがして、とても美味しいですよ!」
「それはよかった」
俊太郎さまの大好きな優しい笑顔を見せられて、胸を高鳴らせた私はつい口走ってしまった。
「よろしかったら、ひと口どうですか?」
言い終って、俊太郎さまが驚きの表情を浮かべていることに気付く。
「ごめんなさい!私の食べかけなんて、嫌ですよね…」
大胆なことを言ってしまったと後悔した時にはもう遅かった。
「頂きまひょ」
自分の器を傍らに置いて、俊太郎さまは私の手から器を受け取る。
「…あ」
そのまま私のお箸で俊太郎さまがおそばをすすった。
しばし、味わうようにもぐもぐと口を動かした後
「…ほんまに、ええ香りや。美味しゅうおすな。
よろしかったら、わてのも一口いかがですか?
こちらはこちらで、そば本来の香りが楽しめてよろしゅおすえ」
勧められるまま、今度は私が俊太郎さまのおそばを俊太郎さまのお箸ですする。
「…本当ですね、おそばのいい香り……美味しい」
ちょっと恥ずかしかったけれど、そんなやり取りが私はすごく嬉しかった。
料亭で出てくる豪勢な食事を彼と一緒に食べるのもまたいい。
だけど、出てくるお料理は一緒だから、分け合う必要がない。
それはそこにはない喜びだった。
一つのものを分け合い、喜びを分かち合う、
それだけで、いつも少し距離を感じる大人な彼と、
気心知れた恋人同士に、一歩近づけた気がして・・・。
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