●○短篇○●
□籠想〜桜梅桃李-オウバイトウリ-
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こんなに心が浮き立つのはきっと、待ちわびた春のせいじゃない。
宛(さなが)ら春の陽気のような惚気顔を誰も見てはいないけれど、
自然と弧を描いていく唇を、無理矢理への字に変えて誤魔化してみたりして。
そうすると、膨れ上がる幸福感で胸が苦しくなったから、やっぱりやめた。
「なんやご機嫌どすな」
「わっ!」
三月も終わりに近づき、窓も襖も開け放しのままのことが多くなった今日この頃。
ちょうど部屋の前を通り掛かったらしい花里ちゃんが、悪戯を思いついた子供のような目で、独りほくそ笑む私を見ていた。
「それは?着物どすか?……流石、枡屋はん。○○はんによう似合いそうや」
「なっ…。なんで枡屋さんからだってわかったの?」
「他に誰がおるん?……これは、いよいよ身請けやなぁ」
こうんなふうに花里ちゃんにからかわれるのも、最近ではだいぶ慣れてきた。
一人で賑やかな彼女が去ったあとの余韻の中、着物を広げ衣紋掛けに掛けてみる。
若草色の生地に、胸元と裾に斜めに流れるように散りばめられた小花に、菫(すみれ)色の蝶が舞う。
三歩分ほど距離を取り、それを下から上に弄るように見惚れながら、
桃の節句の日のお座敷でのことを思い出す――
〜〜〜〜〜
「あんさんの笑顔が見られへんのは、寂しゅおすなぁ…」
「…へっ?」
素っ頓狂な声とともに畳の縁に落ちていた視線を慌てて俊太郎さまに向けると、寂しげな笑顔と目が合って、はっとする。
「わてでよければ…その憂い顔のわけを、聞かせてくれまへんか?」
そのわけは俊太郎さまに一番聞かれたくないのだけれど・・・
なんでもない、と言った後の彼の顔を想像するだけで胸がきゅっと痛んだから、私は正直に答えることにした。
「もうすぐ、俊太郎さまのお誕生日ですよね?
どうやってお祝いしたら喜んでもらえるかな、ってずっと考えてて…」
「ああ、もうそんな時期かいな……。
そうやね…○○はんにこうして酌をしてもろて、一緒に過ごせたら、それで十分や」
「それじゃいつもと変わらないじゃないですか…」
「わてにはそんくらいが丁度ええ。
あんまり甘やかすと、誕生日にかこつけて○○はんに何を仕出かすかわからへんよって…」
「っ…。で、でも、お誕生日はちゃんとお祝いしたいし…
何か欲しいものとか、して欲しいことがあったら、遠慮なく言ってください、ね?」
「考えておきます」
〜〜〜〜〜
そんなやり取りがあった数日後の今日、手紙とともにこの着物が届いたのだ。
手紙には、二人で行きたい場所があるので、行き先は自分に任せてほしいということと、
その日を共に過ごすために仕事を前倒しで片付けていて忙しくしているので、この着物を直接渡しに行けないことへの謝罪に、
この着物を着たあなたと過ごせることが一番の誕生日の贈りものだ、
なんて”らしい”言葉が、その他諸々の赤面必至の文句とともに綴られていた。
お祝いをするのは私のほうなのに、逆にお祝いされているような至れり尽くせり感に申し訳なさも感じるけれど、
俊太郎さまの嬉しそうな笑顔を想うと、それでもいいかな、と思ってしまう。
―――
「枡屋殿も誘ったんだんが、忙しいと断られた。
いつもは○○を座敷に呼ぶといえば飛びついてくるのに…珍しい」
この日は窓からではなく、正当にお座敷の敷居を跨いだ高杉さん。
片膝を立てて座り、挨拶代りに注いだお酒をひと息で飲み干すと、にやり笑いが私の顔を覗き込む。
「浮気でもしてるんじゃないか?」
「からかっても無駄ですよ」
「随分と余裕だな。久しぶりにおまえの百面相を楽しもうと思ったんだが…」
「忙しい理由を知ってますから」
と、ここ数日頭の中が春爛漫な私はつい、俊太郎さまの誕生日のことや着物を頂いたことを、得意げな素振りで話し始めた。
久しぶりに会う彼の性質をすっかり忘れ――。
「――あ、いたいた」
そうして、高杉さんにすべてをぺろりと話し終えた頃、まるで自分の家かのように飄々とお座敷に入ってきたのは慶喜さんだった。
「○○、元気だったかい?」
「はい!慶喜さんも、お元気でしたか?」
「それがねぇ…あまり優れないんだ」
「えっ…」
「長い間、○○に逢えなかったから。寂しくて寂しくて死にそうだった」
「嘘ばっかり…」
高杉さんは呆れた様子で手酌で注いだ盃を煽りながら、あからさまに慶喜さんを歓迎していなかった。
「なぜ○○がここにいるとわかった」
「ん?ちょっとね、楼主に知り合いがいてね。
いま○○が何処の座敷にいるか教えてもらった……はい、これお土産」
慶喜さんは私の手を取り、何かを握らせた。
丁度手のひらに収まるくらいのそれは、桜の花があしらわれた蛤と思しき貝殻だった。
「わざわざ人の逢瀬に割り込んでまでくるのは無粋じゃないか?その知り合いの楼主とやらに預けておけば…」
「開いてごらん」
慶喜さんはすでに高杉さんの存在を消し去っているようだ。
言われた通り貝の傍らを開いてみると、その内側は玉虫色に輝いていた。
「…紅、ですか?」
「そう。きれいだろう?」
「でも、こんな高価なもの頂けません」
玉虫色に輝く紅は、最高級の証。
新造振袖の私が持っていいようなものじゃない。
恐縮していると、慶喜さんの両手が貝殻ごと私の手をそっと包んだ。
「こういうのはね、素直に貰っておくものだよ」
そう言う慶喜さんの声も表情も優しいのに、どこか有無を言わせない雰囲気が、私を頷かせる。
「……はい。ありがとうございます、慶喜さん」
「うん、いい娘だ。
本当はお酌の一杯でも頼みたいところだけど…。生憎とんぼ返りなんだ。
ただ、どうしても帰る前に○○の顔が見たくてね…」
そう言って、私の頭をぽんぽんすると、じゃあまたね、と慶喜さんは忙しなくお座敷を出ていった。
すると、好奇に満ちた視線を感じる。
「……なんですか?」
「男が女に紅を贈る意味を知っているか?」
「いいえ」
「男が女に紅を贈るのは、その唇が欲しい、ということだ」
「…!」
「因みに、櫛を贈るのは夫婦約束の証。金平糖は永久(とわ)の愛の誓い。
そして……着物を贈るのは、自らの手でそれを乱したいから、だ。
教養のために覚えておくといい」
否応なしに着物の贈り主の顔が浮かんできて、瞬時に全身が燃えるように熱くなった。
「俺からは、今度櫛を贈ろう」
「要らないです!…あ」
鬼気迫る勢いで拒否しながら睨んだ高杉さんの顔が驚いたような顔をしていたから、私もつい同じ顔になる。
「……さすがの俺も、そんな剣幕で断られると傷つくぞ」
「すみません……でも、冗談でそういうことは言ったらだめです…」
「…冗談、か…」
紅と着物と櫛で頭の中が混乱していた私の耳には、その嘲笑交じりの小さな呟きは届かなかった。
今夜最後のお客さんだった高杉さんを見送り、戻った自分の部屋。
ここのところ帰るのを楽しみにしていたのに、今日はどうも居心地が悪い。
あんなに毎日穴があくほど見惚れていた着物が、恥ずかしくてまともに見ることができなかった。
「高杉さんがヘンなこと言うから……。どうせ、またからかわれただけ…だよね」
煩くなる心音を落ち着けるように独り言を呟きつつ・・・・
今夜は若草色の着物の上に、普段着用の藍色の着物を目隠しに掛けて眠った。
―――
俊太郎さまのお誕生日を数日後に控えたある日のこと。
やっぱり、誕生日には気持ちを形にして渡したくて、
何か良いものはないかと、窓枠に頬杖をつき、流れていく雲をぼんやり眺めながら考えていると・・・
『――金平糖は永久の愛の誓い――』
神のお告げのように降ってきた高杉さんの言葉に、少し不本意さを感じながらも、押入れの奥に隠しておいたものを手探りで手繰り寄せる。
両手に持った巾着袋は、ずっしり重い。
「これだけあれば大丈夫かな…」
「――金平糖?ほんならいつも世話になっとる若狭屋はんに…」
「違うんです。普通のじゃ、だめなんです。…こう、色とりどりのやつが、いいんです」
この時代での金平糖はシンプルな白色が主流で、現代で見る色とりどりのものは一般的に手に入れるのは難しい。
「なんや、珍しゅう我儘やな」
帳簿をつけながら、私を横目に見て秋斉さんが笑う。
お仕事中に申し訳ないと思いつつも、譲れない想いで食い下がった。
「どこかで手に入るところご存知ないですか?
もちろん、お代は自分で払います!お小遣いはあまり使ってないから十分足りると思いますし…」
「……わかりました。慶喜はんに頼めば難しいことやないやろ」
「ほんとですか!宜しくお願いしますっ!」
「……ほんで。どこの男にやるんや?」
「えっ!?」
「あんさんは、自分のための我儘を通すような娘ぉやあらへん。
……ああ、そういえば、六日の日は枡屋はんと出掛けはるんやったね…」
「…はい」
「まぁ、せいぜい手練手管にしときなはれ」
「……」
秋斉さんは、置屋主人として、一人のお客さんに執心するなって言いたいんだろうけど、それだけじゃない気がして、何故か小さな反抗心が生まれた。
だから私はその忠告は受け入れないつもりで、頭を一つ下げただけで秋斉さんの部屋を後にした。
―――
俊太郎さまのお誕生日前夜。
恥ずかしくて目を合わせられなかった、例のものの目隠しをそっと取ってみた。
高杉さんに会ってから日にちを置いて、記憶も薄れたせいか、今日は平常心でいられた。
そもそも、あんなに純粋な愛の籠った手紙を読めばわかることだった。
俊太郎さまはそんな下心を持ってこの着物を私に贈ったわけじゃない。
「高杉さんじゃあるまいし……。うん、大丈夫」
改めて自分に言い聞かせ、そろそろ寝る準備を始めようとしていたところへ、襖の向こうから潜めた声がかかった。
「――○○?入ってもいいかい?」
知った声に、用件を察して招き入れる。
「夜分遅くに悪いね」
「いいえ。私の方こそ、我儘なお願いをしてしまってすみません」
私と膝を合わせて座った慶喜さんは、早速懐から可愛らしい包みを取り出した。
「代金のことは気にしなくていいからね」
「だめです!これはちゃんと私が買わないと意味がないですから」
「この金平糖は、俺から○○にあげる」
「それは!…困ります…」
「じゃあ、代金の代わりにこの金平糖を、○○から俺にくれる?」
「…それも…できません…」
「はは、振られちゃった。……で。これ、誰にあげるの?」
そう言って慶喜さんは、わざとなのか無意識なのか分からないほどの仕草で、ちら、と掛けてあった着物を見遣った。
「まぁ、大方察しはついてるけど……。
……そうだ!このまえの紅、気に入ってくれた?」
「あ、はい。でも、やっぱり私には勿体なくて…」
「見たいな。…ねぇ、ちょっと紅を点してみせてくれない?」
さっき慶喜さんが『振られちゃった』なんて言ったから、これも断ったらなんだか申し訳なく思えてきて・・・
「わかりました。ちょっと待っててください」
その要望は了承することにした。
けれど、徐に引き出しから取り出した紅は、手にしたそばから慶喜さんに取り上げられてしまう。
気付くと膝頭が触れるほどに慶喜さんとの距離が縮まっていて、反射的に体を反らすと、
「じっとしてて」
両肩に手を添えて、姿勢を正された。
ちろりと舐めた薬指で紅を取ると、小指が顎を軽く支えて上向かせ、驚きに半開きの唇を往復する。
「ぁっ…」
塗り終えると、慶喜さんは少し体を仰け反らせ遠目に私を眺めて・・・
「…あれ?頬にも紅がうっちゃった?」
余計な事を考えて顔を赤くする私を、戯(おど)けてからかった。
「やっぱり綺麗だ。でも……あの着物には、ちょっと華やかすぎて合わないかな…」
そう私と着物を見比べて言ったその声色には、冗談を微塵もなくて・・・
「これにはきっと太夫衣装が似合う。いつか見たいなぁ、この紅を点して歩く○○の太夫道中」
「私なんか、太夫には…」
「なれるよ。○○なら、なれる」
真摯な瞳に、言葉が詰まった。
慶喜さんが紅をくれたあの夜もそうだった。
どうしてそんな瞳をするんだろうか、その向こう側にある感情を読み取ろうとした私に・・・
「その時の旦那は、俺だからね」
そう、戯けて片目を瞑ってみせながら、慶喜さんは言った。
そして最後には、じゃあまたね、といつもの調子で帰っていく。
なんだか胸にもやもやしたものを感じながら視線を落とすと、金平糖の可愛らしい包がちょこんと座ってこちらを見ていた。
「……あっ!」
お金を渡していないことに気付いて、私は慌てて慶喜さんを追いかけ、半ば強引に代金を渡したのだった。
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