●○半篇○●
□星垂ル
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昼間の憎たらしい太陽を夜の帳が覆い隠した頃…
俊太郎さまに手を引かれてやってきた部屋には、吊るされた蚊帳の真ん中に布団がひと組あった。
首筋に纏わりついた汗を湿った夜風がねっとりと撫ぜ、ゴクリと生唾を呑む。
いくつかの感情が混じり合って、複雑に高鳴る胸。
そんな私の心中など素知らぬふりの俊太郎さまは、
あくまで、紳士的な仕草で片手で蚊帳の入り口を持ち上げ、中に入るように促した。
躊躇しつつ中へ入ると、当然のように布団の上へと誘われる。
戸惑いながら抵抗する気もなく、私は彼に導かれるまま…
「…あの…ぁ…」
腰を下ろした途端、トン、と優しく肩を押され、背に柔らかな感触を受ける。
いよいよ胸の高鳴りが最高潮に達した私を見下ろして、俊太郎さまはふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「…目ぇ、閉じて」
低く甘い声に催眠術でもかけられたかのように、私は素直に瞼を下ろした。
「…そのまま、少し待っとって」
従順に目を閉じたままコクンと頷くと、そこにあった気配が遠くなっていく。
暗がりの中独り放置され、不安と少しの期待で敏感になる聴覚が微かな衣擦れの音を余さず拾って、
これ以上ないくらい心臓に早鐘を打たせて呼吸が乱れそうになるから、秘かに息を深くした。
いつからこんな卑しい女になったのか、なんて誤解しないでほしい。
こんなふうに私が柄にもなくおかしな想像を繰り広げるのには、それなりの理由がある。
――数日前。
「……ほたる?です、か…」
夕涼みがてらほたるを見に行きませんか、という誘いに語尾を濁した私に、俊太郎さまは透かさず言葉を補った。
「先約があるならそちらを…」
「違います!……約束は、誰ともしてないです。ただ…」
「ただ?」
「ただ…………苦手、なんです……虫が…」
夏の夜に、ましてや蛍がいるような川辺の自然豊かな所に出掛けるなど以ての外。
「あの、ほたるが光るのはきれいだなって思います……でも、遠くから見てる分にはいいんですけど……手の届く距離に来られると、ちょっと…」
想像しただけでも嫌悪感で眉間にシワが寄ってしまう私の顔を覗き込んだまま、
俊太郎さまは何度か瞬きをしたあと、ああ、と納得したように息を吐いた。
「これは…配慮が足りひんで、すんまへんどした。そうやね、そういう人もおるはずや」
「すみません、せっかく誘っていただいたのに…」
「構へんよ。正直に言うてくれはっておおきに。
……ほんなら、外には出ぇへんで部屋の中で、楽しめることをしまひょ…」
なんて、俊太郎さまが言ったから―――
「ッ!!……俊太郎さま?」
「目ぇ、開けてみて」
不意にすぐそばに感じた気配にビクリとして、ようやく落ち着けた心臓をまたドクドクさせながら、
その声に催眠術を解かれたような心地でゆっくり瞼を持ち上げると――
「――わぁ…」
若草色の小さな光があまた流れ星のような軌道を描いて、
見上げた蚊帳の天蓋越しに放たれた蛍の光は、まるでプラネタリウムだった。
「きれい…」
「これなら、怖くはないでっしゃろ」
「はい!」
無垢な返事をしたものの、頭の中のよからぬ残像のせいで、私の顔はいま耳まで真っ赤だろう。
それを淡い蛍の光では認められないのをいいことに、声色だけは平然を装って…
「で…っ、でも、こんなたくさんの蛍、どうやって…?」
すぐ耳許で聞こえた自嘲するようなくすり笑いが、答えのヒントをくれる。
「もしかして、俊太郎さまが捕まえてきたんですか!?」
「さすがに一人では無理やから、通りすがりの風来坊に少し手伝うてもらいました。新しい商売でも始めのかと笑われながら」
口の端を上げて軽口を言うその”風来坊”の姿が容易に想像できて、思わず笑ってしまう。
「でも…大変、でしたよね…」
「いいや。野を駆け回って虫を捕まえて喜ぶような幼い時分は、書物を読み漁ることに明け暮れとりましたよって…。実は、虫を捕まえるのも初めてやったんどす。そやけど上手く捕まえられると嬉しいもんで。ええ歳して夢中になってしまいました」
そう言って微笑む俊太郎さま。
こうして私に会いに来てくれる時間すら、忙しい合間を縫って無理に作ってくれたもののはずなのに…
いつも俊太郎さまは自分の苦労は微塵も表に出さない。
お陰で時々心配になることもあるけれど…
その想いは純粋に嬉しくて、なんて愛されてるんだろうと再確認して、これ以上ない幸福に満たされた胸は、
決まって、憂いを連れてくる。
頭上に舞う淡くも力強い輝き。
たったひと夏の命。
そんな儚いもの、そこに彼の姿が重なって…
勝手に苦しくなって、全てを包み込んでくれる大きな胸に甘えるように頬を寄せた。
「……どないしはりました?」
危ないことはしないで。
ずっとそばにいて。
出かかった言葉を呑みこんで…
「ううん。…だだこうしたかっただけ……ダメ、ですか?」
未来の約束を請うのは、彼を困らせるだけだと知ったから。
心配をかけないように、俊太郎さまの優しく笑う顔を少しでも多く見たくて、ようやく身に付けた手管。
「駄目なわけがあらへん…」
幸せそうな吐息と共に肩を包んだ大きな手の温もりと、トクン、トクン、と彼の中で規則正しく鳴る音が、
私に理由のない安堵をくれる。
―*―*―
「ううん。…だだこうしたかっただけ……ダメ、ですか?」
甘えてくれるのは素直に嬉しい。
けれど、こんな夜に甘えてくるときは、大抵本当の気持ちを隠す時。
いまこの娘が何に憂いているのか、その本心は推し量ることはできないけれど、
私を想ってのことであるのは確かだろう。
堪忍…と言えば、きっとまた悲しい顔をさせてしまうから――
いまは、この娘を腕に抱ける束の間の幸福を噛み締めていよう。
おわり。