●○短篇○●

□一本桜
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その場所は思った以上に京の町から離れた場所にあるらしく、

歩き疲れてきてしまった私は、自然と俯きがちになり、

周りの景色など楽しむ余裕もなく、

隣で手を引いてくれる彼にすべてを任せて歩いていた。


――そうして私は俊太郎さまに連れられるがまま歩き続け・・・


「○○はん」


ふいに名前を呼ばれ、隣の彼を見上げる。


「お疲れさん。着きましたえ」


私に向かってにっこりと微笑みをくれた後、俊太郎さまは視線をすっと前方に向ける。

つられるようにその視線を追うと、目の前には草原が広がっていた。

そして、緑一色の風景の中にそれを見つけて、私ははっと息を呑む。

広がる草原の他に何もない中、寂しげに立っている一本の桜の木。

桜と言えば、たくさんの木が連なって競うように咲き誇り、

その回りには必ず人々が集まり、賑やかで豪華絢爛という言葉がよく似合うものだ。

けれど、その桜は誰に愛でられることもなく、

たった一本きりでそこに立っていた。


「この桜を、○○はんと見たかったんどす」

「……これを……」

「たまたま見つけたんやけど、なんや無性に惹き付けられてしもうて。
連ねて咲き誇って花吹雪が舞い散る桜並木も美しいけど、
たった一本だけで咲いとるこの桜もまた趣がある。
それを○○はんにも見せたかったんどす」


俊太郎さまの言葉を聞きながら、一本の桜を見つめる。

確かに、豪華さや華やかさには欠けるかもしれないけれど、

たった一本だけで咲くその桜には、凛とした強さを感じた。


「……素敵……私も好きです、この桜……」

「よかった、気に入ってもらえて。……近くまで行ってみまひょか」




――それから私達は草原の中を歩いて桜の木の下まで来た。

近くで見ると、私と俊太郎さまが隣同士に並んだくらいの幹の太さがあって、

とても立派な大木だった。



おもむろに木の根元に俊太郎さまが腰を下ろす。

その隣に座ろうとした私を俊太郎さまは待ってと制して、

胡坐をかいて座った自分の膝をぽんぽんと叩いた。


「○○はんは、ここに」

「え…」

「せっかくの綺麗なお召し物が汚れてしまいます…さぁ…」


手を引かれ、半ば強制的に迎えられた彼の膝の上に、

申し訳なさを感じながらそっと腰を下ろす。

身を硬くする私を俊太郎さまはくすくすと笑って、

遠慮がちに座った私の腰を自分のほうへと引き寄せる。

バランスを崩して彼に縋りつくように全体重を預け、

いつも見上げる俊太郎さまを、今は少し下に見る位置。

俊太郎さまに見上げられるのは、なんだか少し照れ臭い感じがした。


「そないに体に力を入れとったら、疲れてしまいます。どうか楽に」

「でも…」

「せや、その篭の中はなんどすか?」


・・・重いから・・・と言いかけた私の声を遮るように、俊太郎さまが話題を変える。

言い訳をするタイミングを上手くかわされてしまって、

完全に彼のペースに呑まれてしまった私は言われるがまま、

膝の上に乗せた篭にかけてあった風呂敷を取ってみせる。


「……お酒と、お菓子を持ってきたんです」

「へぇ?そらええ」


私が俊太郎さまに楽しんでもらうために持ってきたものは、

かわいらしいピンク色をした珍しい濁り酒。

それと、並ばないと買えない人気のお菓子屋さんの桜餅だった。

特に季節限定の桜餅は大評判で、朝一番で行っても買えないこともある。

だから、私はちょっとずるい手を使った。

このお菓子屋さんは藍屋が贔屓にしているお菓子屋さんでもある。

来客用に出すお菓子も、挨拶回りで持っていくお菓子もいつもここのものを使う。

私もお使いでよく行くことがあるからお店のご主人とも顔見知り。

だからこっそりお願いしておいた。

桜餅を二つだけ取っておいてほしいと。

ご主人もお世話になっている藍屋の娘さんなら、と快諾してくれて、

このピンク色の濁り酒もそのお菓子屋さんのご主人から頂いたものだった。

お菓子屋をやってるくらいだから、あまりお酒は飲まないんだ、と言って。


そんな一連の出来事を俊太郎さまに話しながら、

一緒に持ってきたお猪口を渡してお酒を注ぐ。

白い陶器のお猪口には、桜色のお酒がよく映えた。


「いちごみるくみたい……」

「いちごみるく?」

「…何でもないです」


ぽろりと口にしてしまった言葉を不思議そうに聞き返す俊太郎さまに笑ってごまかしながら、

お菓子屋のご主人に、最後にもうひとつ言い含められた言葉を思い出して、

私は密かに頬を染める。


”濁り酒は悪い酔いすることもあるさかいにな、酔った男には気をつけなはれ”


意味深な言葉・・・


・・・でも、俊太郎さまはそんな行儀の悪いことはしないもんね・・・


「こらまたかいらしい色や……あんさんの頬の色とおんなしや」

「…!」


ほんのり染まった頬の色を指摘され、考えていたことを見透かされたようで、

私は誤魔化すように慌てて桜餅を手に取った。


「桜餅もいかがですか?
……あ、でも、お酒のおつまみに甘味は合いませんよね……すみません、気が利かなくて……」

「いいえ、酒も甘味もわては好きどす。喜んで頂きます。それに、酒の肴はここにある」


見上げる俊太郎さまと見下ろす私の視線が暫く停滞して・・・


「……あっ、え!?な、なに言ってるんですか……」

「あんさんを肴に、わてはいくらでも飲める。
桜の下の○○はんはいっそう美しい。
やっぱり、あんさんをここに連れてきて正解やった」

「……わ、私も…俊太郎さまとこの桜を見られてよかったです……」


視線をさ迷わせながら言う私の隣で、俊太郎さまが自嘲するように笑う。


「ほんまに、○○はんは相変わらず素直やなぁ。わての下心が恥ずかしゅうなる」

「下心……?」

「桜の下におる女の人は、何故か不思議といつもよりも綺麗に見えて、
いつもはなんとも思わへん女子にさえ惚れてしまうと言うほどや。
そやし、普段から美しいあんさんが桜の下におったら……皆心奪われてしまう。
そんな美しいあんさんを他の男の目になど触れさせとうない。
あんさんに惚れる男はわてだけでええ……。
せやから、桜もあんさんも独り占め出来るここへ来たんや」

「…………」


突然の俊太郎さまの情熱的な言葉にどうしていいかわからず、

私はただ顔を赤くして俯くだけだった。


桜餅を手にしたまま固まってしまった私を俊太郎さまが笑う。


「桜餅……頂きまひょか」

「……あ、はい……」


私は俊太郎さまにひとつ、桜餅を差し出す。

けれど、俊太郎さまはそれを受け取ろうとしない。


「……俊太郎さま?」

「すんまへん、○○はん。生憎両手が塞がっとります」

「あ…」


言われて初めて気付いた。

俊太郎さまの片手は、膝の上に乗る私の不安定な体を支えるため、腰に添えられていて、

もう片方の手には、お酒の入ったお猪口を持っている。

当然、桜餅を受け取る手がない。


「じゃあ、お猪口、お預かりします」


そう言って、俊太郎さまが持つお猪口に手を伸ばすけれど、

逃げるようにそれをかわされてしまう。

横目に彼の表情をちらりと窺うと、それは優美に微笑んでいた。

その笑顔を見れば俊太郎さまの言いたいことは大体わかる。

でも、恥ずかしい。でも、きっと彼もそれを譲らない。

私は観念して、手に持った桜餅を一口大にちぎって、

そっと俊太郎さまの口元に近づける。


「…ど、どうぞ……」

「おおきに」


俊太郎さまは満足げに微笑んで、私の手から桜餅をぱくりと食んだ。

同時に指先に柔らかな感触がして、

ふわりと吹いた春の風が指先を撫でるとひんやりとした。


「うん、流石、名菓の菓子や。………いや、それだけやあらへんな。
○○はんの手から貰うたんが格別な味の証や」

「……また大袈裟に……」


俊太郎さまの本気か冗談か分からない軽口に笑いながら、

その指で自分の分の桜餅をちぎって口に運ぶけれど、

俊太郎さまの唇に触れた指で食べるのは、妙に恥ずかしかった。




――俊太郎さまの膝に乗って、お酌をしながら、美味しいお菓子を頂いて、

時折、温かく柔らかな風が運んでくる桜の香り。



ひらひらと舞い落ちてきた花片が俊太郎さまの肩に乗る。

ふと頭上を見上げると、蒼色を背景に散りばめられた桜の花々。


「……きれい……」


私の声につられるように、俊太郎さまも顔を上げる。


「ほんに、美しい………
『春霞たなびく山の桜花見れども あかぬ君にもあるかな』」

「……?どういう意味ですか?」

「桜と同じように、美しいあんさんのことはいくら見てても見飽きひん、
そういう意味どす」

「……もう」


柔らかな蒼色の空の下、桜の花を仰いで俊太郎さまと二人きり。

遠くの方で鶯の鳴く声が聞こえてくる。

とても優しくて、とても幸せな時間。

俊太郎さまがぽつりと呟く。


「……この桜が気になったんは、自分に似とるからかもしれへんな……」

「桜が、俊太郎さまに?」

「……周りに仲間もおらんと、たった一人で立っとる。春のほんのわずかの間の命で……」

「……俊太郎さま……」


桜を見上げた俊太郎さまの笑顔が悲しい。

誰に心を許すことなく、誰も信じることなく、ただお役目を全うするためだけに、

ずっと孤独の中で生きてきた俊太郎さま・・・。

たまらず私は手を伸ばす。


「……大丈夫です。これからは私がこうして隣に寄り添っていますから……」


俊太郎さまの頭を胸に抱え込むように抱きしめた。


「……○○はん」

「もう一人じゃないです。私がずっと俊太郎さまの傍にいますから……」


ただ気持ちのままに声にした。

考えて出た言葉じゃなく、ただ自然と出てきた言葉だった。

彼を抱きしめたのも、意識していなかった。

だから、ふと我に返った時、たまらなく恥ずかしくなって、

大胆な事をしている自分にどきりとして、胸に抱いた彼から手を離した。


「ごめんなさいっ、私……生意気なこと……」


身を引いた私を俊太郎さまは片手で引き寄せ、

悲しみを消して、妖しい色に変えた瞳が覗き込む。


「ずっとそばにおったら、いつかわてはあんさんの奥深くまで根を這って、
すべてを吸い尽くして……二度と逃れられへんようにしてしまう。
……それでも?」


ぞくりとして怖気づきそうになるけれど、私はしっかり彼の瞳を見つめ返して答えた。


「はい」

「逃げたかて、地を這ってどこまで追いかけますけど」

「…っ」


怖いくらい綺麗で、妖しい瞳。

身の危険を感じて、私は必死に話題を逸らそうとした。


「…あ!お、お酒!美味しいですか?どんな味がします?」


けれどそれは逆効果だったようで・・・


「……試してみます?」


俊太郎さまは、悪戯な笑みを浮かべると、

残っていたお酒をぐいっと一気に口に含んで、少し乱暴にお猪口を地面に放った。

動揺する私の膝裏に彼の腕が差し入れられ、ふわりと腰が浮くと、

私は彼の膝の上から胡坐の間へとすっぽりとはまる。

いつものように私が俊太郎さまを見上げ、俊太郎さまが私を見下ろす。

そこから流れるような手つきで私の顎を捉え上向かせると、

驚きに半びらきだった私の唇を塞いで、それが閉じられる前に舌が差し入れられた。

そこから熱い雫が口の中に流れ込んでくる。


「ぅん……」


溢れた雫が口の端から流れて出ていく。

思わず伸びる手を俊太郎さまに絡め取られ、舌が零れる雫を舐め取る。


「…っはぁ…」


ほんのり甘い味とぴりっとした刺激に、強めのお酒の香りが口の中に広がった。

くたりと彼の胸にもたれながら、あがった息を整える。


「……お味の方はどうどす?」

「…わ、っわか、りません……」

「ふふ、もう酔ってしもうた?」

「…………」

「ほら、白い肌が桜色に染まっとる……」

「ひゃっ…!」


うなじをするりと撫で上げられ、そこに俊太郎さまの唇が落ちる。


「…っ」


耳朶を食んで、首筋を軽く吸って、頬に柔らかく触れて、最後に優しく唇を塞がれる。


「……いつかあんさんを酔わしてみたいもんや。
酔うたあんさんもまた色っぽいでっしゃろな。
せやけど、それもわての前でだけや。他の男に酔わされてはあきまへんえ」


お酒に酔ってしまったのか、俊太郎さまに酔ってしまったのか分からない。

ぼうっとする頭で、私はこくりと頷いた。

それを見た俊太郎さまは、にこりと微笑んで、

どこまでも優しく、どこまでも情熱的に深い口付けをくれた。




おわり☆ミ
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