●○長篇○●

□巡り愛〜誰がために
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【第六幕】



<其の一>



ぽっこりと膨れた腹を抱え、もう時期一歳になる子を背負いながら、



相変わらず、○○は家の中を忙しなく動き回る。




そんな中、どこからか忙しない物音がするのを不思議に思い、その音の出所を捜していると、



部屋で何やら荷物をまとめている様子のとめを見つけた。



「……とめさん?何してるんですか」



○○の声に振り向いたとめは、笑顔で答える。




「ああ○○はん……引っ越しの準備どす」


「引っ越し……って?」


「○○はんも、すっかり母の顔にならはって、もうわてが手を貸す必要ものうなったでしょう?

せやから、この家は旦那さんと○○はんと……きっとこれからぎょうさん増える子供たちで使うておくれやす」


「私達で使ってって……とめさんは、どこに行くんですか?」


「ほら、一軒隣に丁度ええ空き屋があったでしょう。

そこの大屋はんが家賃はいらんさかい、使うてくれて。

家は人が住まへんとどんどん廃れていきますさかいな、ただ放っておくよりええから言うて……」



言いながら、とめはせっせと風呂敷に身の回りのものを包んでいく。



○○に気を使わせないためなのか、とめの声色は一際明るい。



そのせいで、○○もとめを引き止める言葉が出てこなくなってしまう。




「時々、ちびちゃん達の元気な顔が見られれば、わてはそれで充分やさかい」




あっという間に荷物をまとめ終えると、俊太郎と○○に挨拶をし、



引っ越し先の家の掃除もしなくてはいけないからと、とめはそそくさと空き屋に移り住んで行ってしまった。





「本当によかったんでしょうか……」


「とめはんがそう言うんなら、こっちが気ぃ使うて遠慮するほうが気に病むのかもしれへん。

昔からそういう人やさかい……」


「……そうですね……じゃあ、私お掃除手伝ってきます」


「わても行きまひょ」






―――とめが一軒隣に移り住んで行ってから、半月程経た頃、



俊太郎と○○の新居となった家に、とめが招かれていた。




三人が横一列に並び、手を叩いてその名を呼ぶ温かな視線の先には、



一升餅を背負わせられ、泣きもせず真剣な表情で、呼ぶ声の方へよたよたと歩みを進める幼子。



それを皆が目尻を下げ、微笑みを浮かべながら見つめる。




「もう少し!がんばれ、がんばれ!」




転びそうで転ばない、しっかりと足を踏ん張って、



その子は、母に一直線に向かってくる。




「……はぁい、がんばったー!」


「よう泣かへんで、強い子や」


「やはり、子は母を求めはるんやな……」



手を叩いて喜ぶとめと、俊太郎は少し寂しげに笑う。




迷わず母の元へ歩み寄ったその子は、



大きく出っ張った腹に頬を寄せるように抱きつき、○○をにこにこと見上げる。




生まれた子は『藍之介(らんのすけ)』と名付けられた。






―*―*―*―



慶喜から贈られた木綿布を使って、縫い上げられた肌着を着せられ、



○○に抱かれた我が子の顔を覗き込んで、俊太郎は愛おしそうにそのぷっくりとした柔らかな頬を撫でる。



「……この子の名前やけど」


「はい」


「らんのすけ、はどうやろか?」


「……らんのすけ?」




俊太郎は文机に向かうと、姿勢を正し、筆を取る。



○○は、静かにその様子を見守る。



そうして、出来あがった一枚の半紙が目の前に掲げられると、



そこに記された『藍』の文字を見て、○○ははっと息を飲んだ。




「○○がここに来てくれた日の夜、話してくれはったやろう?」




俊太郎の言葉に、○○は記憶を辿る。



とめに連れられ、俊太郎との再会を果たした日の夜、



二人寄り添って、一つの布団に横になりながら、お互いのこれまでの出来事を話し合った時のこと。




「この子は、藍屋の皆に介(たすけ)られた子や。それを決して忘れたらあかん。

この子にも、皆の支があって、自分が今ここにいることを、忘れて欲しゅうない。

こうして名に刻めば、わてらもこの子も、生涯そのことを忘れることはあらへんやろう」


「……俊太郎さま……」



俊太郎の想いに、○○は嬉しさで胸が熱くなった。



「そのまんま”あいのすけ”でもええけど……”らんのすけ”の方が、男らしゅうてええやろう?」



そう言って微笑む俊太郎に、○○は泣き笑いの笑顔で、はい、と答えた。






―*―*―*―



藍之介は、どんっと腰を据えたまま、



そろばん、筆、小銭を目の前に、難しい顔して、吟味しているようにも見える。




そろばんを選べば、商売の才能、筆は芸術、物書きの才能、お金は将来お金に困らない生活が出来る、



そんなふうに言われている。




「どれを選ばはるんやろか」




とめがにこにこしながら藍之介を見つめる。




暫く考えていたようなそぶりを見せていた藍之介がいよいよ重い腰を上げ、



四つん這いになり、手にしたのは筆。




「筆を掴まはった!将来は文豪か、有名絵師かもしれまへんなぁ!」


「とめはん、そら買い被り過ぎや」



広い屋敷の中に、明るい笑い声が響き渡る。








ようやく、数々の苦難を乗り越えてきた二人にも、平穏な日々が訪れた。




しかし、俊太郎が町に出ることもできないため、収入がないことが問題だった。



○○も幼子がいる中、おまけに身重の体で働きに出ることは難しい。



二人目も生まれることもあり、この先収入が無いことをどうにかしなければと考えていたところに、



とめが薦めてくれたのが、玄徳のように、村人のために何かをして、



その代金の代わりに生活に必要なものを分けてもらうというやり方。



この村では、そういった物々交換のようにして互いを助け合う習慣が根付いている。



問題は何と交換してもらうか。




そこでまた、とめが知恵を貸してくれる。



この村では大人も含め、読み書きのできる者はごくわずかだけれど、



せめて文字を読み書きできるくらいにはなりたいという意思を強く持つ者が多くいるのだと。



けれど、村には強弁を学ぶような場所が無く、町に出て教えを請えば、高い金がかかる。



教えることにも向き不向きがあるため、なかなか師となる人材がいない。



そこで、俊太郎の性格や博識であることから、とめが薦めてくれたのは、



この広い家を利用して、村の子ども達から大人まで希望者を集め、



読み書きを教えたり、色々な物語を読み聞かせ、その意味を分かりやすく解説していく、



といった、寺子屋のようなものを開いてみたらどうかということだった。



そして、その授業料の変わりとして、皆から野菜や米などを分けてもらう。



そうすれば、当分の間は生活に困ることはないだろうと。




不安はあるものの、とにかくやってみようと、数人の村人に声を掛けてみたところ、



存外、講義がとても分かりやすいと噂は瞬く間に広がり、



数日後には、俊太郎は皆から「先生」と呼ばれ、一目置かれる存在になり、



始めは数人だった生徒たちから、今ではひと部屋を埋め尽くすほどにまでなっていった。





○○も和歌や歌を、遊び程度に女達に教えながら。



俊太郎と○○、子供たちは、同じ世代の子たちに遊びを教わりながら馴染んでいき、



この村の住人としての、新しい生活が始まっていった。
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