Vampire

□物語の続き
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 忘れられない女がいた。
 私がその女に恋をしたのはいつの頃だったか覚えていない。もう遠い昔のことだ。だが、いつも脳裏に浮かぶのは、伸べられた白い手と炎のように燃え盛る赤毛――。
 そして、決して語りはしなかったが、人間を愛し、吸血鬼にしては、風変わりで優しい女だった。

 彼女はいつも“鈴姫”と呼ばれていた。
 吸血鬼界でも、純血種という最上級の血を持つ、「鈴堂家」の末裔の娘。
 腰まである、波打つ赤毛を豊かに揺らしながら、聡明な深緑色の瞳を細めて笑う、美しい女。まだ若く、あどけなさが残る年頃だったように思うが、彼女の年齢も名前も知らない。ただ、幼き私は、優しく招いてくれるその女に頬を赤らめながら、“鈴姫さま”と慕っては後を追っていた。
 彼女は、気まぐれに一条家に訪れては、一条家のかき集めた一級品の骨董品や芸術品を眺めるのが趣味だった。広い園庭の中を散策し、園庭で飼われている鯉に餌をやったり、眺めたりしていた。上品な絹を織り込んだ赤い着物よりも、艶やかで華やかな赤毛を揺らし、園庭の中を優雅に歩くその姿は、一条家の人々を虜にした。

「麻遠」

 もちろん、私もその1人だった。彼女は一条家を訪れると、必ず私を透き通る声で呼んだ。その度に、胸が煩いほど高鳴り、口がうまく動かず、しどろもどろにしか返事できない私を、優しく微笑んでこちらにいらっしゃい、と白き手を伸ばしてくれた。
 いつも傍に居ることを許してくれた彼女は、かなり博識で読書家だったため、幼き私に合わせた物語を作っては語り聞かせてくれた。その物語は冒険から推理、ホラー、ファンタジーと多岐に渡った。彼女の薄桃色の唇から零れ落ちる世界は、私を惹きつけ、まるでその世界に入り込んで眺めているかのような錯覚に陥った。
 面白くて想像できない物語を作っては語ってくれたが、どれも一話完結で、もっと長い話を聞きたいとせがんでも、次はいつ来られるか分からないから、と優しく宥めながらも寂しげに微笑んでいたのを、覚えている。

「昔々、ある小さな国に1人の人間の王様と善良な市民がありました――」

 私が彼女に会った最期の日。彼女は、笑顔は浮かべているものの、憂いを帯びた声で、私にある物語を語った。私は何時もとは違う彼女の様子に疑問に感じつつも、ゆっくりと言葉が物語を織りなすのを、傍でじっと聞いていた。彼女が語ってくれたのは、ひとりの人間の王子が、飢えた吸血鬼に自らの血を捧げ、王子自身も吸血鬼になり――苦悩しながらも、人間と吸血鬼の共生の道を探る物語だった。

「王宮から広がる、美しい夕陽を見て、王子様は泣きました。静かに泣きました。涙が止まるまで――泣きました。涙が枯れるまで泣いた後、王子様は、顔を上げて、夕陽に誓ったのです。どんな自分であれ、強く生きていくと――。」

 語り終えると、彼女はすうとひと深呼吸し、真っ直ぐに私を見つめて微笑んだ。

「これで、このお話しはおしまいよ」
「……王子様は、人間と共に生きたのでしょうか」
「それは、わたしにも分からないわ」
「それとも、吸血鬼として生きたのでしょうか」
「さあ、それも、わからないわ」
考え込んだ私に、彼女は笑って言った。
「この物語の続きは、貴方が考えて頂戴?」
「僕が?」
「ええ、貴方が――」

これを、貴方に。と、差し出された1冊の本。彼女の瞳と同じ色の深緑色の小さな本だった。本と彼女を相互に見た私に、慈しむように私の頬にキスを落とすと、やっぱり優しく微笑んだ彼女。もう二度と会えないのではないか、という直感が働いた。
 ふわりと燃え盛る赤毛を揺らして席を立つ彼女――。

「鈴姫様」
帰ろうとする彼女を、呼び止めた。歩みを止めて振り向く。
「また、会えますよね?」
どうかまた、と願いを込めたが、彼女は寂しそうな微笑みを浮かべた。
「……さぁ、それは、分からないわ」
少なくとも、此処に来るのは最後なのだと察した。察しながらも、引き留める言葉を見つけるには稚すぎた私は、ただ、こう云うだけで精一杯だった。
「……どうか、お元気で」
「ええ、貴方も――」


 あれから、彼女は姿を消した。吸血鬼界から、跡残さずに。
 なぜ、あの時、「好きだ」と言えなかったのか、今でも悔やむ。ただ、私は幼く、無力で、庇護されるばかりの子供に過ぎなかったのだ。
 彼女が、何に苦悩して、物語の王子のように、何を決断したかは分からないが――最後に浮かべた微笑みが、脳裏に焼き付いては離れない。

 ――結局、考えて考え抜いても、彼女が綴った物語の続きを作る気にはなれなかったのだ。思うに、あの王子は彼女自身なのだ。そして、彼女は姿を消した。それが、彼女自身が出した、一つの答えなのではないだろうか。
 いずれにせよ、一つ言えることは、彼女は人間を愛し、吸血鬼にしては、風変わりで優しい女であり、今でもきっと、どこかで静かに生きている――ということだけだ。





-fin-
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