こつこつ、石段の階段を降りて、地下室に向かっていく音。
コンコン。ノックの音がして、扉が開く。
愛は、目を向けなくても、誰が来たのかよくわかっていた。
「やあ、愛ちゃん」
分厚い本を持って、そろそろ交代だよ、と微笑みかける淡い金髪の青年。
それを眺めながら、「白馬の王子様みたいだ」とつくづく思わずにはいられなかった。光に空けそうな淡い金髪に、人懐っこそうな緑目の瞳、気品のある美しい顔立ち。明るくて、朗らかで、春の日差しのように、温かくまわりを照らしてくれるひと。なのに、と愛は目の前にそびえる、氷の柩の中で眠る男を睨むように見つめた。
“一条拓麻は、枢に囚われている”
これは巷で噂されていることだった。愛は母親である、優姫に理由を尋ねても、彼女は、親友だったからね、と深い眼差しで微笑むばかり。周りも何度か結婚話を持ち出したらしいけど、彼は聞く耳を持たない、どこ吹く風。愛としては、確かに父親を守ってくれるのは有難いけれど、むしろ心配だった。彼の将来が。
「どうしたの、愛ちゃん。そんなに怖い顔して……」
覗き込むようにして、一条が優しく話しかける。
「別に、何でもないわ」
「そっか」
これ以上は干渉せずにしておこうと判断したのか、拓麻はテーブルに分厚い本をドサッと置くと、枢の方に歩み寄って、見ているこちらが拍子抜けてしまうほど、和やかな笑顔を浮かべて「やあ、来たよ」と、暢気に挨拶した。
何か面白いことや楽しいこと、事件や大変なことが起きた時、一条は枢に向かって色々なことを話しかける。
時々、墓守の交代にやってきた愛にも同調を求めたり、話を振ってくることもある。相当重病だ。愛は、ため息を付いた。これじゃあ、彼はずっと一生、結婚できないままだ。すると、一条がそれに気づいて振り向いた。
「愛ちゃん、ため息なんか付いて……恋の悩み?」
「そうじゃないわ」
「難しい年頃だね」
あまりにもそっけない態度に、一条は少しだけ困った表情になった。愛の気を引こうとして、「昔は拓麻君、拓麻君って、可愛かったのに……!」と芝居かかった演技をするものの、愛は物思いにふけってあまり相手にしなかった。
――小さい時、拓麻君に聞いた初恋の話を、ちゃんと覚えている。ここだけの話だけどね、拓麻くんって写真のひとに恋したんだって。知ってた?
燃えるような赤毛に、エメラルドの瞳が美しいひとだったって話してくれたの。「もう一度会いたい?」って聞いたら、「会えるのならね」と寂しく微笑んでいた。どうして寂しそうな微笑みを浮かべていたんだろう、って思って、母さんに尋ねたら、そのひとはとうの昔に姿を消したきりで、今でも消息がつかめないんだって。もしかしたらどこかで生きているのかもしれないけど、彼女に関する資料が全くと言っていいほど少ないそうだ。だから、探したくても探せない――という状況らしい。
それに、拓麻君は白鳥のように優雅でのんびりしているように見えるけれど、父さんの墓守に、一条グループの運営に、新元老院の官僚――多分、わたしだったら目が回って倒れそうだ。本当はすごく多忙なひとで、そんな激務を悠々とこなしていくんだから、すごい。
だから、なんとかしてあげたいの。父さんにとらわれて、ずっと結婚できないままなんて。わたし、一条さんの子どもが見たいのに!(それが本音。だって、周りがわたしを置いていっても、その子孫達は残るんでしょ?)
相手にされないと分かると諦めたのか、一条は本を開いて読書を始めた。それを横目に、愛は考え始めた。彼の将来、そしてその先にある愛自身の将来について。自分が幸せであるためには、彼にも幸せになってもらわなくっちゃ――そう考えるのは、自分勝手なのは彼女自身も百も承知だった。それでも、そう願わずにはいられない。
しばらくして、愛が口を開いた。
「拓麻君」
「うん?」
一条の名を呼ぶと、本から視線を上げて、人懐っこそうな顔で「どうしたの?」というように首を小さくかしげた。その雰囲気が、少しだけ黒主理事長と雰囲気が似ていると愛は思った。
「昔、わたしに話してくれた初恋の話、覚えてる?」
「――ああ、よく覚えているんだね」
拓麻君は、すごいなあと苦笑いを浮かべる。愛は両肘をテーブルにつけて、頬杖をつきながら、少し甘えるように言った。
「初恋の人の写真、見てみたいわ」
愛は、一条の整った若葉色の瞳が少しだけ見開いた。
「えーっと、どこにしまったかなあ」
愛にしてみたら、その写真さえ見れば、彼女を探し出すことも、もしかしたら不可能ではないかもしれないのだった。一条はそれを知ってか知らずか、また探してみるねと微笑った。
「うん。待ってる」
愛はそういうと、ごく自然な操作でにこりと笑って、立ち上がった。
「じゃあ、後はよろしくね」
愛は、「またねー」と陽気な一条の声を背後に、その場を立ち去った。
――拓麻君、あのね。
わたしはあなたのハッピーエンドが観たい。
あなたがどう思おうと。