月白風清

□鏡花水月
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鏡花水月























『スペインで活躍中の椎名選手に熱愛報道です!』



朝起きて、日課になっているニュース番組をつけると聞き慣れた名前をアナウンサーが口にしていた。

スポーツ新聞の一面には『椎名 熱愛』の4文字



『椎名選手は時計や自動車のCMにも起用される容姿端麗なサッカー選手として女性からの人気も高いので、これには日本中が驚いているでしょうね』



まだ自分が寝ぼけているのか、それともまだ夢の中なのか。

そういえばしばらく翼から連絡なかったな、と思うとこれは現実なのかと嫌でも実感する。



『お相手はスペインと日本のハーフのモデル…』



テレビのチャンネルと変える。
しかし他の番組でも同じ内容の報道が放送されていて、私は嫌気がさしてテレビの電源を切った。


「こんなことより他に報道することはないのかね…」

朝の7時台のニュース報道といえば見ている人も多いだろうし、もっと身になる内容を報じて欲しいものだ。これだからメディアについての不信感が拭いきれない。

イライラの原因ははっきりしていた。
別に私は国会の議論の内容が知りたかった訳でも、今の株価の状況が知りたかった訳でもない。ただ、椎名翼に関する自分にとってはショッキングかつ都合の悪い報道を見るのがつらかったのだ。


翼がスペインに行ったのは2年ほど前。

日本でも人気のある彼は、何かとテレビでもその活躍が報じられることが多い。サッカーで活躍した時はもちろん、最近ではその容姿からブランドの時計や車のイメージキャラクターにも起用され、CMや巨大広告で彼の姿を目にすることも少なくない。



「きょーこ!僕の話聞いてる?!」


綺麗な顔で毒を吐く彼のことをメディアは『ドS発言の王子さま』や『ビッグマウスの椎名は有言実行』などと報じている。何事も言い方次第だな、と感じる。



高校時代は気づけばそこにあったそのマシンガントークも今となっては懐かしい。別に罵倒されたいというわけではないが、翼の偽りのない言葉は何よりも信頼できるのだ。
翼が「きょーこなら大丈夫」と言えば何でも出来る気がした。それは翼自身がいろいろ不可能なことを可能にしてきた実績にも説得力があるからだろう。


「けっ、サッカー選手のクセにチャラチャラしてるよな」

電車に乗った時に隣にいたサラリーマンが翼の広告を見て吐き捨てるように呟いていたのを目にしたことがあった。
そう、椎名翼はこちらの努力が無駄で、明らかに椎名翼は神様のお気に入りで、自分たちはまるでおまけで創られた存在なのではないかと感じるくらい完璧な人間なのである。

でも、私は知っている。
翼は決して最初から完璧な人間だったわけではない。
人の何倍も苦労して、努力して、悩んで、今の翼になったのだ。
だから私たちが容易に羨ましがってはいけないのだ。

それでも翼は自分が努力しているなんて口が裂けても言わない。仕舞には「僕は天才だからね」などと言い切ってしまうわけだから、神様に認められた人間だと周りが言っても仕方のないことなのだけれど。


翼はどんどん大きくなる。それは彼がずっと人には言わないけれど気にしていた身長だけではなく、世界的にも名を馳せているという意味で。その人と知り合いだというのは、私の都合のよい妄想なのではないかと思ってしまうくらい、今は、遠い人。



先ほど少しだけ目にしてしまった熱愛報道をされているハーフのモデルは日本でも有名なモデルさんだ。最近ではモデルだけでなく、ドラマなどにも出演しているから特にファッションショーやイベントに足を運んだことのない私でも顔くらいは知っている。すらりと足が長くて、顔も可愛いというより綺麗な感じで「女神」と一部のファンから呼ばれているとバラエティ番組に出演していた時に紹介されていた気がする。
こんな綺麗な人なら、翼の隣にいても引けを取らずに、世間からは『美男美女』と賛辞を浴びるに違いない。



「はあぁ……」

ため息をひとつ。空虚な空にお見舞いしてやったけれど、私の小さな息など気にも留めずに風の中に消えた。私の言葉も、存在も、何も残らない。
もしここで私が死んでも、地方新聞の一部に掲載されるくらいで、特に全国放送で報道されることもない。別に芸能人になりたいという願望があるつもりもないのだが、ここまで翼との間に格差というか、人間としての大きさの違いを見せつけられると流石にへこむ。




「なに?俺に勝てると思ってんの?!」

昔、翼が私に言った言葉。
翼に勝とうなんて恐れ多いこと、一度でも考えたことはない。ただ、翼の周りにいる、翼のことを外見の良さだけで気に入って近づいてくる女たちには負けたくなかった。しかし、翼といえば容姿はもちろんのこと、才能にも溢れている。頭も今現役で勉強しているその辺の学生なんかによりずっと賢いのだ。だから、外見から翼に興味を持った人も翼のことを知れば知るほど、どんどん彼の魅力に気づきますます好きになるだろう。それが私よりも綺麗で賢くて、気の合う女性だったら翼も男だし、選ぶ権利を有しているのだから私のことを忘れないで、という方が非常識な気がする。



もちろん、今回の報道が全くのでたらめという可能性もあった。翼から特に別れを告げられたわけでもないし、黒川君たちからも何も連絡は入っていない。何より、椎名翼という男は容姿端麗・頭脳明晰という二刀流という自分だったら好き勝手生きるだろうところを、意外と律儀に生きているのだ。ああ見えて面倒見が良くて、困っている人、悩んでいる人がいればさりげなく近づいてアドバイスして助けてくれる。助けたところで一銭も彼の特にはならないのだけれど、素直な人間が成長する姿を見るのは面白いのだそうだ。

つまり私が何を言いたいのかというと、椎名翼という男は二股などしないということだ。他に好きな人が出来たとしたら、元カノにはきっぱりと別れを告げ新しい女性を大切にする。例え別れを告げることで相手を傷つけるのとしても、彼は二股などかけずに律儀に別れを告げる、そんな気がするのだ。


まあこれも自分がまだ別れを告げられていないことを良いことに、言い訳に言い訳を重ねているだけなのだろう。そうでもしないと、自分を保てる自身がない。自分でも自覚していなかったが、私はこんなにも翼に思いを寄せていることに気づかされる。



ブブブブブ・・・・・・
ポケットの携帯電話が揺れる。まさか。






「なんだ、なっちゃんかぁ」
今朝の報道を見て、心配して連絡してくれたのだろう。

幼馴染は私と翼が付き合っていることを知っている数少ない友人の一人だった。
翼がスペインに行くと話した時は私以上に泣いてくれて、彼女の涙に貰い泣きしてしまって、二人して放課後の教室で何度も鼻をかんだことを想い出す。ティッシュに染み込むものが涙なのか鼻水なのかわからないほど、私たちは沢山泣いたし、鼻水も流した。
裸の付き合い、という言葉あるように私たちの間には、鼻水の付き合い、という言葉がしっくりくるかもしれない。

心配してメールを送ってくれたなっちゃんに、大丈夫だよ、と返事を送る。
何も大丈夫ではないのだけれど、だからと言って特別落ち込んでも仕方のないことだ。そう自分に言い聞かせた。



大学の講義を受けている時も、考えるのは翼のことだった。
今頃翼は、スペインのお洒落なお店で美女と美味しくお酒でも呑んでいるのだろうか。


翼が高校を卒業し、スペインへ旅立ってから2年が経っていた。私は一度もスペインへ行ったことがない。
学生の身分の私は、夏休みなどの期間を使ってスペインへ行こうと考えたこともあったが、金銭的な問題と自分の気持ちが足枷となっていた。

1年ほど前に「俺が旅費の半分出すよ」と翼が言ってくれたけれど、私はそれを断ったのだ。

一度でも翼に会ってしまえば、また日本に戻ってくるのがこの上なくつらくなることが安易に予測出来たからだ。
高校時代、毎日一緒にいた翼。彼と会えない日々は本当に心細かった。弱気になった時に励ましてくれる相手、面白い出来事があった時に報告する相手、友達に教えて貰った美味しいと噂のお店に一緒に行く相手。その全てが翼だった。そんな翼を失った私の生活は、色褪せたように退屈なものだった。

しかし人というのは慣れる生き物で、翼のいない生活に私はようやく慣れてきたのだった。


今の時代、メールや国際電話も使えるから、私たちは自分たちの近況を報告した。直接会わなくても、私たちの関係は続く、根拠はないけれどそう思っていた。

けれど、ここ一週間翼と連絡が取れなくなってしまった。お互いのストレスにならない程度、一週間に一回はメールか電話をしていたのだが、翼にメールを送っても返信が返ってこなくなったのだ。
最初はきっと練習が忙しく、疲れているのだろうと思っていたのだが流石に一週間も返信がないとへこむ。だからといって、何度も私の方から連絡するとかえって鬱陶しがられそうで躊躇われた。そうこうしているうちにも時は流れてしまい、今朝の報道である。


信じたい気持ちと、疑う気持ちが入り混じって私の中で渦を描く。それは鳴門の渦のように可愛らしいピンク色をした渦とは程遠く、どちらかと言えば蚊取り線香のように火がついてじりじりとくすぶり、そこが火傷したようにひりひり痛むような渦。蚊取り線香の香りはどちらかと言えば好きな匂いだったのに、今はその火のくすぶりが、中心の、私の胸に迫ってくるのではないかと怯え、その火を消してしまいたくなる。



気付けばもうすぐ7月で、夏の気配がする。去年の夏休みはほとんどバイトに行っていたような気がする。特にやりたいこともなく、あるとすれば翼に会いたいということだけで、考えることさえ億劫で、高校時代に一緒に過ごした夏休みを嫌でも思い出してしまう。そんな喧噪から逃げたくて、私はバイト先の店長に頼まれればほとんど断ることなく、バイトのシフトを入れていた。おかげでお金を貯めることは出来たけれど。せっかくの人生の夏休みと言われる大学生のこの時に、まさに夏休みを労働というこれから先嫌でも強いられることに費やして良いものだろうか、と考えなかったわけではない。でも考えることが面倒になり、考えることさえ止めてしまったのだ。



「考えるのを止めたら、成長しないよ」


五月蠅い。また、あいつの言葉が脳裏をかすめる。つらい時、ちょっと調子に乗った時、どちらの洋服を買おうか迷った時、いつだって考えてしまうのは、椎名翼だったらどう考えるか、ということだった。翼だったらなんて言うかな、前にも似たような状況の時翼は何て言ってたかな、そんな風に想ってしまうのだ。ここに、日本にすら翼はいないのに。






「え、」


アパートの玄関には、鮮やかな赤、深紅のキャリーバッグが置かれていた。あまりにも大きくて、玄関をふさいでいる。




「やっと、帰ってきた」

声につられて踵を返せば、スーツ姿の男の姿があった。




「つば、さ?」

「きょーこが来ないから、俺が来ちゃったよ」




翼のスーツ姿なんて、高校の卒業式の後の謝恩会に一度見たきりだ。だから、私の知っている翼というよりは、CMや広告で目にする椎名翼がそこにいた。




「なんで、え?」

「いらぬ心配してるんじゃないかと思ってね」





こんな大して新しくもない、安い賃貸の前に椎名翼がいるはずがない。きっと今日一日、翼のことばかり考えていたから幻覚を見てしまったんだ。幻覚っていうのは初めて見るな。でも自分では幻覚だって意識してないから幻覚なのか。そうだとしたら、私は今までも幻覚を見ていたのかもしれない。もしかしたら、椎名翼と同じ学校だったということも、椎名翼の彼女だったということも、全ては私が自分の都合の良い妄想で、現実から逃げるための作り話だったのかもしれない。




「ちょっと、久々に会ったのにその態度はないんじゃないの?」

少し機嫌が悪そうに、片方の眉をあげて翼がこっちを見る。それは私の知っている翼の癖だった。




「だって、ハーフ、連絡、だって……」




翼が二股しないと思っているなんて嘘だ。私は翼がスペインに行くと言ったあの日から不安で仕方がなかったんだ。でも、翼のことを信じられない自分が嫌で、翼のことを信じて待っているって強がって、今日まで生きてきたんだ。




「やっぱりね、勘違いしてると思ったよ」

溜息をついて、でも少し笑って、翼が私に近づく。




「きょーこ、もうすぐ夏休みだろ?今年こそはスペインに来てもらうからね」

そう言って手を握られたのかと思えば、私の手には空色の紙。スペイン行きのチケットだ。





「今年もメールか電話でスペインに来いって言っても断られると思ったから迎えに来た。これなら断れないだろ」

まるでいたずらを仕掛けた子どものように笑う彼の姿がそこにはあった。それは皺のないスーツには不似合いの、あどけない笑顔。




信じても良いのだろうか、翼の言葉を。

信じても良いのだろうか、翼を信じたいと思った自分を。











朝、恒例となっている朝のニュース報道を見る。チャンネルと変えても同じ報道ばかり。



「他に報じることはないのかね…」



『帰国椎名 熱愛!
本命は学生時代から付き合っている幼馴染  ハーフモデルとの交際は全面否定!』











鏡花水月(きょうかすいげつ)
意味:儚い幻のたとえ。目には見えるが、手に取るものはできないもの。







→あとがき

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