The secret of midnight

□(仮題)微睡み
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毎朝、人知れず楽しみにしている。
子供を送り出した後、マンションのエントランスであの青年に会うのを。

今日は仕事は休みなのだろうか。
車の中から手を振る息子を通りの角まで見送った後、少し肩を落として踵を返した。


在り来りな日常の中に、彼はいつからいたのだろう。
今更であり、戯言だと思う。

そう、今更。
忘れてた感情を思い出してみても、どうなるわけでもない。

でも、あの日、確実に何かが変わった。
望んではいけない物がざわざわと音を立てて。

今日は後1分。
明日は3分。
彼と同じ時間を共有出来たら...。

たったそれすらも、望んではいけない物ですか...?



****


男は愛車のキーをガラステーブルの上に置くと、スーツのままリビングのソファに腰を下ろした。
連日会議や付き合いで帰宅は深夜を回った。
仕事の事を何もかも忘れるように目を閉じる。
疲れに任せ、このまま眠ってしまおうか。
男は緩めたネクタイをするりと抜くとため息を吐いた。

いや、本当は...彼女を忘れる為に仕事に没頭しているのかもしれない。

薄明かりの中、キッチンのカウンターに置きっぱなしになっている二脚のグラスが目に入った。

後ろ髪を引かれるように部屋を後にした彼女の事を思い出す。

もう戻りはしない。
それでも密かに彼女を思い続ける日々もいつかは遠い昔の記憶となっていくのだろう。


同じマンションに住んでいる彼女を知ったのはつい先日の事だった。
いや、それ以前から『知って』はいた。

たまたま居合わせただけ。
見かけただけ。

ただの隣人として。

特別意識する事もない。
そんな存在だった筈。

非日常すぎる妄想は、朝になればいつだってただの幻想。

有りもしないただの戯言。

なんの接点もない。
ただ、同じマンションに住んでいるだけ。

そんな存在だった。


****


暑い日だった。
早朝から例年よりも気温の高いその日は、名の息子が友達とその家族と実家のある田舎へと2泊3日で遊びに出かけた。
自然が豊かな田舎で遊ぶのを彼女の息子は何日も前から楽しみにしていた。
家族以外の人間と外泊するのも彼にとっては初めての経験だったが、意外にも不安な様子はなく、それよりも普段滅多に経験することの無い非日常への好奇心が勝っているように見えた。

亭主は隣県に単身赴任中。
名はパートをしながら家庭を守る日々を過ごしていた。

何気ない日々。

いつも通りに過ぎていく日常。

その日も普段と変わりなく過ぎていく筈だった。


マンションの付近まで息子の友達が家族と一緒に車で迎えに来た後、名は久しぶりの一人きりの部屋へ戻ろうとした時だった。
エントランスのエレベーターが開いた時に若い女性が降りてきた。
たまに出勤時などに見かける女性だ。
愛想がよく、会えばいつも笑顔で会釈をする。
その日もいつもと変わらず名が会釈をするもその女性は気づかないのか俯いたままゆっくりと名の横を過ぎ去ろうとした。

ぐらり。
名の視界が揺れる。
肩に衝撃があったと感じたのも束の間、エレベーターから降りてきた女性は足元をふらつかせながら名にもたれかかったまま倒れてしまった。
「えっ?!」
名は重なるように床へと尻もちをつき、その女性の肩を掴み声をかけた。
「あのっ...大丈夫ですか?!」
覗き込んだ女性の顔は言葉通り真っ青だった。
目が回っているのか、女性の視点は定まらないようで名は彼女を何とか近くのベンチへと移動させようとするも上手くいかない。
救急車を呼ぼうにもスマホは部屋に置いたままだ。
彼女を置いて戻るには不安が残る。
そうこうしている間にも女性の体からは力が抜けていく。

「どうしたんですか?」
革靴の音と共に表れた青年が名に声を掛ける。
名は一瞬どきりとして言葉に詰まった。
「あ、あの、具合が悪いみたいで...。」
名が青年を見上げた。
先頃越してきたその住人は歳の頃は20代後半に見える。
「手を貸しましょう。」
年齢よりも落ち着いた声音で言い、青年はしゃがんで名にもたれかかっている女性の脇に手を差し込みゆっくりと立たせた。
女性が青年の仕立ての良さそうなスーツにしがみつくとくしゃりと皺ができた。
半ば引き摺るようにしながらエントランスの隅にあるベンチへと連れていき、女性を座らせる。
「失礼。」
そう一言前置きを入れてから、青年は女性のふくらはぎを抱えあげ、横になるように促した。
そこからは瞬く間に時間が過ぎた。
青年が呼んだ救急車に名が付き添いという形で乗り込み、青年も愛車で病院へと後を追った。

****

カランと氷が音を立てると同時に、グラスの表面に出来た水滴が滑り落ちた。
いくつもの水滴の汗をかいたグラスの下にある珪藻土のコースターに落ちては染みていき、見る間にすぅと跡形もなく乾いていく。
「お疲れ様でした。」
青年が濡れた手をハンカチで拭いながら言った。
「峯さんも...。」
そう名が返すと峯と呼ばれた青年は不器用に笑って見せた。

青年の背後の壁掛け時計に名は視線をやった。
正午を少し回った辺りだ。
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