アンバランスなキスをして

□二十一話
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こんな、廃れかけた部が唯一使用しているような寂しい準備室には、時計すら置かれていない。でも今し方まで気にしていたこれから始まる授業の開始時間も、今の俺にはどうでもいい。

直に紅の肌に触れてみればよくわかる。
以前抱き上げた時には感じられなかった、熱く滾るような焔。それが今、彼女の中からジワジワと感じ取ることができてしまう。

「…蔵馬…、離して…」

か細く、懇願する声。両の手首を掴まれ押さえつけられて、逃げたくても逃げられない可哀想な紅。
ごめんね。でも今は、この手を離してはあげられない。

「飛影に何をされた?」
「…どうしてそんなこと聞くの…?」
「俺には、言えない…?」

何もない、とは言わないのか。本当に言葉の駆け引きが苦手な人だ。

人には人の、妖怪には妖怪の、持って生まれる気の質は異なる。霊気と妖気は相容れないもの。だから、彼女が妖気を持ち得るはずはないのだ。

しかし第三者から入れ込まれ、器が拒まず受け入れたのならば、この限りではない。それが蓄積され、こうして体に馴染むほどになっているなんて。

先日、霊力を手っ取り早く取り戻す方法はないのかと言った飛影に、告げた言葉を思い出す。
俺は、知り得る術を伝えたまでだ。
飛影に「お前の気を注げ」と言ったつもりは、ない。

「ねぇ紅、」

肌が粟立ち、魂が融合した人の体の細胞がざわつく。満ちた妖気が、南野秀一の体を曾ての自分へと作り替えてゆく。
普段は意識の奥深くに眠る白銀の獣の本能が今、目を覚ます。

「……俺の妖気も…当然、受け入れてくれるだろう?」

目の前で俺の姿形が移り変わる様を見て、飛影の焔を抱える瞳が大きく開かれる。
そう。そうして、そこに俺だけを映しておくがいい。

「…あの時の…、ぅ…っ…?!」

紅が何かを独り言ちて開いた唇を、見逃すことなく犬歯の覗く己のそれで塞いでいく。
僅かな空気の壁しか隔てぬすぐそこに、欲してやまない女の瞳。
邪魔するかのように根付くあの邪眼師の炎など、取り上げて塗り替えてしまおう。

「う、ふぁ…や…ぅんっ」
「さぁ…その焔を手放すがいい」

両腕の自由を奪われて、紅が出来る抵抗など高が知れている。バタつく脚には体重をかけて、顔を背けられる度に角度を変えて吐息ごと食らいつく。
時々呼吸と共に俺の名を呼ぶのが、なんとも言えず雄を煽られているということを、こいつは知っているのだろうか。

「っ…、紅」
「…んん、…ぅっ」

暴れる体を押さえ、飛影の妖気を吸い上げようと紅の舌を食んだ時、濡れる舌に犬歯が薄く傷の線を引いた。眼下で痛みに目を瞑る紅に、申し訳なさと加虐心を覚えながら、吸い上げた鉄の味を嚥下してゆく。

…美味い。

「はぁ…っ」

人食いでもないのにそう思わせる甘美なもの。昂る興奮から息も上がる。

そうだった、コレはそういう存在だった。紅自身は知らないだろう、何故自分が異形や妖怪につけ狙われてきたのか。
その答えがこれだ。

こいつは、この女は美味いのだ。気を抜けば器から溢れ出す程の霊力を、持って生まれた哀れな弊害。強く惹かれるのは、それが作用しているからかもしれない。

「(……やめろ、)」


『…何をしている、目の前の獲物に手を伸ばせ』


その衝動に駆られそうになるのを、必死で押さえ込む。違う、そんなことをしたいわけじゃない。

血の味に浮かされてクラクラとたゆたう視界を持ち上げると、すぐ下に強く閉ざされた瞼の端から、滴を溢す彼女の顔があった。
舐っていた舌と舌が、怪しく短い銀糸を繋ぐ。

「……飛影…」
「…っ」

こんな心の臓が冷えるような感覚など、一体何百年ぶりだろうか。
ハッと我に返って起き上がり、気が付けば妖狐から南野秀一の姿に戻っていた。

「… 紅!」

力を込めてしまっていた手首を離して、そこに残る赤い痕に息が詰まる。その両手が力なく持ち上がって、彼女の目元が覆われてゆくのを眺めて。堪らない気持ちで華奢な背中に腕を回し抱き起こした。

そんな資格など、俺にはないのかもしれないけれど。

「すみませんでした…」

手触りの良い髪に指を差し込んで後頭部を支えて、別の腕で背中をさする。制服に押し付けた彼女の顔はもう見えないけれど、恐らくまだ泣かせたままであろうから。

いっそ手酷く罵って、引っ叩いてくれた方がマシだった。
しかし紅がしたのは、首を横に振ったことと、暫くしてから顔を上げて腫れた目元で「大丈夫」と言っただけで。

紅があの時呟いた、飛影を呼ぶ声が俺の芯を締め付ける。
それがどういう意味かくらいは、分かっているつもりだ。

「(…自覚した途端に玉砕確定とはな…)」

もうとっくに校内の本鈴は鳴っていたけれど。

紅が顔を上げるまで、俺がこの腕を離すことはなかった。


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